最後の一人が為なり | チャイロの赤裸々日記

チャイロの赤裸々日記

プライベートの日記です(・∀・)

時には真面目に

時には面白おかしく

チャイロのすべてを書いていきます。

私も

道元さんや西田哲学だけが

禅宗の僧侶ではないと思いますし

新しい思想家や宗教者を否定するわけではありません。



何事も新しいアイディアは必要ですし

そうすることによって

洗練されていきます。



それは以前に貴方が

私に言ってましたよね。



わたしもかなり「今時」の考え方

だと思いますし


そもそも「無」という概念が

全くありません。



人間が臨終を迎えると

「無」になるのか?ということすら

解りません。


それに考えもしません。



なぜなら「今」があるからです。



「今をどう生きるか」


これを貴方の見解からすると

「死を見つめていない」

ということになるのでしょうが…



それは違うと思います。



「今をどう生きるか」ということを

考えて考えて

必死に生き抜くことも

「死を見つめる」ということに

通ずると思います。



新しい観点から

「無」というものを捉え

思考を巡らし論文にすることは

大切なことだとも思いますし

宗教の、禅宗の発展にも繋がると思います。



でも

どんなに新しい劇的な思想が生まれたとしても

それは「一時」の思想に過ぎないですよね?



時代が変われば、人が変われば

宗教も変化していく。


その通りだと思います。



『「誰がどう言った」とかいう思考停止な論法は

すでに死んだ。』



では貴方の言われることはどうなのでしょうか?

貴方の「言った」ことも

論理的な説明をする「死んだ論法」になってしまうのではないですか?



貴方自身も

古い経典や思想

そしてご自身の体験から

あらゆるものを取り込んで

論文を構築されているのですよね?



「誰かが言った」ことから始まり

「今」の思想を構築されているのではないですか?



詳しく見聞してないので解りませんが

「永劫回帰説」などの思考も

取り入れられているのではないですか?



たとえ貴方が

様々な思想を組み込んで

「連続無」を連結させようとも


それは「今」の概念であり

また時代とともに

人とともに変化していきます。



だから「絶対」ではないし

それを「曼荼羅になりつつある」

なんて大それたことを

人間が言うべきではないんです。



「今」貴方が構築されている論文も

いつかは「過去」になり

また新しく構築されていく。



そしてもう一度「原点」に戻りながら

新しいものが構築されていく。



仏教は

その繰り返しではないですか?


仏教だけではないですね。。




人間の考えることに「絶対」など有り得ないのですから。



わたしは貴方のアイディアを否定するわけではありません。



どのようなアイディアなのか解りませんが

新しい発想を生み出すことはとても大切です。



本当に素晴らしいことだと思いますし

宗教の進歩もあるかもしれませんし

ないかもしれません。



しかし、それを「絶対的なもの」

「曼荼羅」だと思う心が

そもそもの驕りでしかないと思うのです。



わたしは貴方のように

「完璧」に近い人間ではないですし

単なる凡人です。



でも貴方の考えること

発する言葉、思考もまた

完璧ではない。


貴方は学者であるけれど

神でも仏でもありません。



そういうことを

わたしは言っているのです。



だから軽がるしく

「無の境地」や「曼荼羅」

というような発言をしてしまうことが

人間の「驕り」でしかない。


それがわたしの思いです。



努力しない人がいようとも

出来ない人がいようとも

それはその人の「人となり」であって


蔑んだ目で観ることが

間違いなのです。




普段こんなことを文字にしないので

自分の書いていることにも

矛盾を感じてきましたが…(;^_^A



前進、進歩は素晴らしいことです。



でもそれを「絶対的なもの」と思ったり

「曼荼羅」「無の境地」などと思ってはいけないのです。


だって人間ですから…


家畜を喰らい

生きるための光、酸素、水

多くのものを喰らって

生きることしか出来ない人間なのですから。





最後に…



偉そうなことを

シャーシャーと述べてしまいましたが

わたし自身こそ「煩悩」の塊で

出来の悪い人間です。



たいした思想があるわけでもないのに

貴方のいう唯識的な見解を

否定してしまうようなことも

書いてしまったかもしれません。



ですが、「努力をする」ことを

無駄というふうには言わないで頂きたいのです。



確かにそういったことに疲れている人が

多いのも現実です。



貴方のやり方で

子供を育てることも

とても有意義なものだと思います。



でも思考が変化するのと同じく

「努力の仕方」も時代とともに変わるんです。



ニーチェを引用したことにものすごく

否定されましたが

凡人が天才の真似をして何が悪いのでしょうか?



そしてそれを実行しようとすることも

進歩であり進化ではないですか?



ニーチェ自身も自分の学説を

直感的にしか言えず

体系化出来ていないものもあります。


ニーチェの心理学や生理学だってそうです。


「天才」と言われていようとも。



そういうニーチェの残したものを

後の学者や哲学者が体系化していく

場合だってあるんです。



「天才ニーチェ」もまた

人間ということではないですか?



貴方が言う

「廃人になるくらい努力をした人間」だけしか

この言葉を使ってはいけないという考え方も

排他的であり古い考え方だと言えます。



天才であろうと凡人であろうと

努力をすることの大きさの違いはあれども


努力をしようとするものを

馬鹿にしたり、蔑むことはあってはならないんです。


そして「自分にも間違いがある」ということに

気付かなければならないと思うのです。



わたしが言いたいのは

そういうことです。