たとえば
数学の「ゼロ」を使った
例えもありますよね?
ゼロという概念は
インドで生まれたとも言われていますが
+でも-でもない0
どっちにも偏らない0
スタート地点のような0
一見はお釈迦さんが説いた
「中道」のような意味合いも
ありそうな「ゼロ」ですが
やはり坐禅の無とは
違うようにも思います。
0というのは
やはり0を表している。
-1の次で1の前にある0
水平軸に置くと真中にくる0
これは確かに存在するものであり
1や2をあらわすものと
存在意義はそんなに変わりません。
1ではなく2ではないものとして
0が存在しているわけです。
だから「無」=「ゼロ」は
少し違うように思います。
これはそのまま
「死」=「無」ではない
ということでもあります。
自分で考え
自分で体現するもの。
そのために
いくら言葉で「無」というのを
説明しても
それはあくまで知識であり
意味がありません。
坐禅における無というのは
「雑念」に惑わされず
「集中」している状態
と考えられていますよね。
例えば
何か物事に対して集中している時。
仕事に対して「無我夢中」に
一生懸命努力している時
「一生懸命集中する状態=無の状態」
これも一種の
「無」の状態ですよね?
仕事にしろ
家事にしろ
子育てにしろ
自分のやるべき事に集中していること
それを常に保っているのも
「無」の状態ではないかと思います。
無というのは
ある固定の一つではなく
人の数だけ
存在無数に存在するのですよね?
わたしが言うのは
それをいつまでも
「保っていられない」ということです。
「自分は無である」
と感じること 思うことすら
すでに「無」ではない
ということです。
禅や無のことを語るとすれば
悟った世界から
さらにまた迷いの世界「今生」に
還ってくることが重要です。
「平等即差別 差別即平等」
といわれるように
ただ悟って
それに浸っているだけでは
ただの自己満足です。
分別のない心をもった
無の境地を体験したとしても
いま生きている
私たちの世界は
差別の世界であり
分別のある「有」の世界です。
「僕は悟ったから 隠居して生活します」
「僕は悟ったから 死を待つだけです」
と言っても
それはただの廃人と区別ありません。
差別の世界で
いかに平等を実践するか
それこそが悟った人の
勤めのはずです。
「努力は無駄。
無になるかとこそが真実である」
というような思いも
「無我」ではないんです。
「努力をする大人」
または「努力をしろという大人が愚か」
というような考え方や
「並みの努力をできない人間」のことを
どうのこうのと おっしゃいましたが
それは貴方が「努力の定義」を
創造しているだけです。
ノーベル賞を取った人
宇宙へ行った人
エベレスト無酸素登頂を成功させた人
そういった方々だけが
「努力をした人」と
認めることが出来ないのも
自分本位で「努力の定義」を
創造しているだけです。
それもあって
私が「努力」ということを
記事にすることが許せないのかもしれませんね。。
「若い者を批判しているわけではない」
ともおっしゃいましたが
実は、批判しているんです。。
気が付かないところでね…
まぁ、、貴方がおっしゃるように
何もしてこなかったのに
「努力」を口にしている大人もたくさんいますが…
でもそれを言われるなら
私も同じです。
「どれくらいの努力をしてきたか?」
なんて自分では分からないですし
自分なりに「頑張ってきた」という
自負しかありません。
単なる自惚れに過ぎません。
話がそれてしまいましたが
貴方が
世間を蔑んだような表現をされることも
「無我の世界」にはあり得ない事です。
それは単なる「思い込み」の世界です。
全てのものが「有」の世界にいる
わたしたち人間が
「無」の世界を言葉にすること自体が
おこがましくもあり
真実ではないと思います。
仏さんじゃないんですから…
もし人間が本当の「無」というものを
会得することが出来るのだとすれば
それは「臨終の間際」もしくは
「臨終を迎えた時」ではないかと思います。
「無」であると感じることさえ
「無」ではないのですから。
長くなりましたが
「無」は一人でしか体現できない。
だから
それはどのようにしても
人に伝えられることは出来ない。
ということです。
「無」の概念とは
そういうものではないですか?
いくら論文で書いたとしても
論理的に説明したとしても
それがすでに「無」ではないのです。
「天才」とか「凡人」とか
差別心を持っているうちは
「無我の境地」には
まだまだ程遠いんです。
たとえ「天才病」と
医者から言われていようとも…
「無」を極めようとしたり
それらを感じようとすることは
とても素晴らしいことだと思います。
でも簡単に
「私は無の境地にいる」とか
「業を燃やし尽くした」などということは
口にしてはいけないのです。
絶対にね。
それは貴方が言う「僕の経験からして」
という見方も含まれます。
「唯我独尊の世界には居ない」
と言いながらも
「自分は異端児である」と
言ってしまう時点で
それは「唯我独尊の世界にいる」と
言っていることと
何ら変わりはありません。
「有」の世界に生きる人間なのですから。
仏さんじゃないのですから…
わたしの言うこと
分かりにくいですかねぇ…(^▽^;)
このように書けば
また論理的に返したくなりますよね?
それがすでに「無」ではないんです。
分かりますでしょうか…
でも「禅問答」のように
こうしてお互いの考え方や
公案を巡らしているうちに
本当に「無の境地」が
見えてくるのかもしれませんね(笑)
わたしには無理ですが…(;^ω^A
貴方はきっとすごい方なのだと思います(^^)
私なんかが及ばない知識も
たくさんお持ちだと思いますし。
でも「無の境地」に関してだけは
少し見解が違うような気がします。
最初に書いたとおり
私は宗教者でも研究者でも
哲学者でも何でもありません。
ですから「地獄の世界」とか「極楽の世界」とか
「無我の世界」とか
そういったものもは解り得ないですし
信じている訳でもありません。
ただ「いつかまた遇える世界」というものは
信じたい、あって欲しいなぁ…
とは思います(≡^∇^≡)
「大切な人」とまた遇える世界は
あって欲しいと、願っています。
こんなところですかねぇ…(;´▽`A``
お昼休みに猛スピードで書いてしまったので
間違った表現もしてしまっているかもしれません。
何かご指摘があれば何なりと言ってください…(^_^;)
気が向いたら
またメッセでもコメントでもしてくださいね☆
長くなりまして申し訳ありませんでした…m(_ _ )m