長文スイマソ(x_x;)
わざわざ読んで頂いて…
携帯で見れないということで
分けさせてもらいました。。
ほんとにほんとに
スルーしちゃってください(TωT)
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続き
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現代の理論物理学で
宇宙における「無」の解明は
まだ結論が出せていないのが
現実ですよね?
「よく分からないもの」らしい。。
くらいにしか言えない。
貴方は私のことを
「安っぽい頭でっかちで
抽象的な宗教やスピリチュアルカウンセラーにも感じられる」
と蔑まされましたが
「無」というものも
「抽象的な表現しかできないもの」
ということは理解されていますか?
そして
その蔑まされた貴方の言葉は
そっくりそのまま貴方にも
言えることだということは
気付かれていますか?
「無」を論理的に説明しても
それは単なる「頭でっかち」と
言われても仕方がないことなんです。
哲学者の
西田幾多郎さんの言われた「絶対無」
それすらも真実ではないと
言われているくらいです。
西田先生の「絶対無」は
根底には禅の思想があります。
「言葉を捨てたところにこそ
真実がある」としているのだから
それでは真実を
伝えることは出来ませんよね?
頭で考えたことは真実ではない。
「それを捨てろ。
そうすれば足下に
真理があるのが分かる。」
というようなことを言われています。
臨済禅は「公案」
いわゆる禅問答を与え
座禅をしながら
一心不乱に考えさせて
最後に「こんなもの分からん」
と、投げ出したときに
見性を得させる。
というようなやり方ですよね。
曹洞禅は「只管打座」によって
見性を得させること。
どちらもやり方は違いますが
最終的には人間が頭で考えることを止めたときに
本来の自分が見えてくる
という教えですよね。
「死を待つこと」が
「無」である
と、思われていることも
真実ではないということです。
道元さんは
「仏道をならふといふは、
自己をならふなり。
自己をならふというふは、
自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、
万法に証せらるるなり。
万法に証せらるといふは、
自己の身心および他己も身心をして
脱落せしむるなり」
と、言われています。
「仏道」と「真理」は同じ意味です。
真理を求めるとは
「自己とは何か」と問うことであり
「自己を忘れること」だと言われています。
忘れるということは
すべての現象の中に
「自己」を証すこと。
自分という意識を脱落させて
万物の中に自己を
「一体化」させること。
道元さんにとって「無」とは
座禅をすることが真理を知ることで
「自分とは何か」を
追究していくことだと言っていませんか?
禅は自己を
とことん追究していくものです。
だから
それを子どもたちや
周りに伝えるということもまた
「真実の無」を伝えるということには
ならないんです。
真の自分に出会うためには
自分を忘れることが必要。
そのように自分を知りたいという
「思い」すらも忘れること。
そういうことを要求されるものが
「禅の心」ではないですか?
「なにもかも無なくなって
完全に自分を捨てたとき
本来の自分に出会える」
というような
逆説的な言い方をしますよね?
だから
「死を待つ」ということも
「無」ではないんです。
「死を待つ」という考えが
そこにあるのですから。
「普勧座禅儀」の中には
「身心脱落本来面目現前」
という言葉が書かれています。
身心脱落すれば
本来の面目が目の前に
現れているのが分かる。
これが悟りとしています。
じゃあ自分を捨てるとは
どういうことだろうか?
と考える時
道元さんは禅の方法を
「只管打座」の言葉で
語っていますよね。
「ただ座っていなさい」
「それ以上のことは言わない」
壁に向かって
難しい禅問答の公案を
考えさせるわけでもない。
「ただ座れ」です。
でも
ここでいう「ただ」とは
一切何も「無い」ということですよね?
「真理を求めたい」という
目的さえ持たないという意味です。
禅をするとき
「悟りの境地に入りたい」
そう思うこと自体がすでに
「自分の思い、欲望」に
とらわれていると言われています。
何も考えない
何も求めないで「ただ座る」
それを徹底すれば
自分が座っていることさえ
忘れることが出来る。
これが只管打座
曹洞禅の本来の姿です。
「これではいけない。
無心にならねば」と思う。
「無心にならねば」と思うことさえ思ってはいけないのです。
何も考えないとは、
考えてはいけないということも
考えないことです。
ただ、「無心」に
そこに座っていること。
禅が言うところの「無」は
そんなふうに表しています。