一人が為なり | チャイロの赤裸々日記

チャイロの赤裸々日記

プライベートの日記です(・∀・)

時には真面目に

時には面白おかしく

チャイロのすべてを書いていきます。

えっと…

偉そうなタイトルですいません( ̄_ ̄ i)



これは一つの「お返事」で

ものすごーーーく宗教的要素を

書いちゃっているので

スルーしてくださいね(;^ω^A


お返事だと

限りなく長くなってしまうので

記事にしてしまいました。



宗教とか仏教とか嫌いな方。

ごめんなさい涙



もし最後まで読んでくれた方がいたら

コメントしちゃってくださいo(〃^▽^〃)o

批判でも何でも☆


「意味分からん!!」とかwww

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


まず、分かりやすく色分けなどを

しようかと思いましたが

きっとその必要はないですよね?


博学でおられますし

研究者ということなので…



私は研究者でもなければ、哲学者でもありません。


お寺で生まれ、お寺で育ち

僧籍は修得しましたが

僧侶でもありません。



だからと言って

「無」を否定したり

僧侶を否定したり

そういうこともありません。



「僧侶」というのは職業ではなく

「生き方」「生き様」です。



ですから「無」ということについて

わたしなんかがお話することも

大変おこがましくも思います。



長くなりますが、

何度も何度も読んでみて下さい。


私の言わんとすることを…


頭が良すぎて

瞬時に解釈されるかもしれませんが…(;^_^A


それでも読み返してみてください。




仏教では

この「今」を一生懸命に生きるという事が中心にあります。必ず。


それは仏教全般に言えることです。



毎日、ひとつひとつの事に

一生懸命取り組み、


常に自分と対峙して、

自分の生を精一杯生き抜くこと。

それが仏教の根本的概念です。



禅の心は

あるがままに生き

あるがままに存在する。



いったい何のために生きているのか。

本物の自分とは何者なのだろう。



そういうことを禅によって

必死に会得していくことが

禅の根本ですよね?



言葉で答えることはできない。

でも「智慧」を引き出してくれる。


あれやこれや考えず

ただひたすらに「坐る」


ふと心に、ありのままの

「自然」が飛びこんでくる。


「ただ、ひたすらに」が重要だと

教えているのが禅宗です。



「これまで身にまとってきたものは

すべて捨ててしまえ」


「何ものにもとらわれず

縛られず、執着せず」


「たった今
ここにいる自分こそが真実」


そんな考え方が禅宗だと思います。



よく貴方が言われる

「僕の経験から言うと」という

考えすらも棄てなければいけません。



たしか「言葉」に関するお仕事をされているのですよね?


丁寧に書いてくださるのは

有り難い限りです。



ですが、貴方の言葉には

「無我の極めている自分を認めろ」

または

「自分は様々な研究をし、経験したことで無に到達した天才だ」

「凡人とは違う」

と、おっしゃっているようにしか

聞こえてこないのです。



それはすでに「無」

ではないですよね?



自己顕示欲の現れです。


私の書いていることに

反発心がおこるのも

自己顕示欲です。



「無我」というものは

頭で理解するものではないはずです。



「生きるときは精一杯に生き抜き、

      死ぬときは死ねばよい」

これが禅の根本的思想です。



あるがままに…

言葉にはならない境地。


決して

体を痛めつけたり

理屈を覚えるのことが

「無」ではないはずです。



でも「あるがままに…」ということを「努力などせずに…」と捉えるのは

全くもって違います。



おっしゃる通り

「無」をつかむ方法は様々です。



労働を通じてでも

武道、芸道を通じてでも

体感することはできます。



「無」とは

単に自分を無意識な「有」と

感じるものではないですよね?



私は「無」を否定している訳ではありません。

瞬間的な「無」を体感できても

継続的に「無」を会得する。

ということが

不可能だと言っているんです。



そして「無」を表すことは不可能だと

いうことを言っているんです。



道元さんの 「正法眼蔵」は読まれましたか?



悟りの世界まで

丁寧に書かれています。


日本初の

哲学書でもあるかもしれません。



でも、そもそも禅では

「不立文字」であるとしているのですから

言葉や頭で表現できないですよね?



頭で考えたことはすべて偽物であり

仏教用語でいえば「煩悩」

または妄想にすぎないと言われています。



文字を用いないのではなく

文字にしても伝えることができない。



だから教典や

師匠が言った言葉さえも

真実ではないということです。



貴方は論理的に

物事を説明されますよね?



でも論理的だということは

文字による概念や知識に

とらわれているということです。



言葉にして伝えようにも

伝えられないものがある。



無理に言葉にすれば

厳密な意味において

嘘となってしまう。



それは教典や哲学書も

例外ではないはずです。



現代の理論物理学で

宇宙における「無」の解明は

まだ結論が出せていないのが

現実ですよね?



「よく分からないもの」らしい。。

くらいにしか言えない。



貴方は私のことを

「安っぽい頭でっかちで

抽象的な宗教やスピリチュアルカウンセラーにも感じられる」

と蔑まされましたが


「無」というものも

「抽象的な表現しかできないもの」

ということは理解されていますか?



そして

その蔑まされた貴方の言葉は

そっくりそのまま貴方にも

言えることだということは

気付かれていますか? 



「無」を論理的に説明しても

それは単なる「頭でっかち」と

言われても仕方がないことなんです。



哲学者の

西田幾多郎さんの言われた「絶対無」

それすらも真実ではないと

言われているくらいです。



西田先生の「絶対無」は

根底には禅の思想があります。



「言葉を捨てたところにこそ

真実がある」としているのだから

それでは真実を

伝えることは出来ませんよね?



頭で考えたことは真実ではない。

「それを捨てろ。

 そうすれば足下に

 真理があるのが分かる。」

というようなことを言われています。



臨済禅は「公案」

いわゆる禅問答を与え

座禅をしながら

一心不乱に考えさせて

最後に「こんなもの分からん」

と、投げ出したときに

見性を得させる。

というようなやり方ですよね。



曹洞禅は「只管打座」によって

見性を得させること。



どちらもやり方は違いますが

最終的には人間が頭で考えることを止めたときに

本来の自分が見えてくる

という教えですよね。



「死を待つこと」が

「無」である

と、思われていることも

真実ではないということです。



道元さんは

「仏道をならふといふは、

自己をならふなり。


自己をならふというふは、

自己をわするるなり。


自己をわするるといふは、

万法に証せらるるなり。


万法に証せらるといふは、

自己の身心および他己も身心をして

脱落せしむるなり」

と、言われています。



「仏道」と「真理」は同じ意味です。



真理を求めるとは

「自己とは何か」と問うことであり

「自己を忘れること」だと言われています。



忘れるということは

すべての現象の中に

「自己」を証すこと。



自分という意識を脱落させて

万物の中に自己を

「一体化」させること。



道元さんにとって「無」とは

座禅をすることが真理を知ることで

「自分とは何か」を

追究していくことだと言っていませんか?



禅は自己を

とことん追究していくものです。



だから

それを子どもたちや

周りに伝えるということもまた

「真実の無」を伝えるということには

ならないんです。



真の自分に出会うためには

自分を忘れることが必要。


そのように自分を知りたいという

「思い」すらも忘れること。


そういうことを要求されるものが

「禅の心」ではないですか?



「なにもかも無なくなって

  完全に自分を捨てたとき

  本来の自分に出会える」

というような

逆説的な言い方をしますよね?



だから

「死を待つ」ということも

「無」ではないんです。



「死を待つ」という考えが

そこにあるのですから。



「普勧座禅儀」の中には

「身心脱落本来面目現前」

という言葉が書かれています。



身心脱落すれば

本来の面目が目の前に

現れているのが分かる。


これが悟りとしています。



じゃあ自分を捨てるとは

どういうことだろうか?

と考える時


道元さんは禅の方法を

「只管打座」の言葉で

語っていますよね。



「ただ座っていなさい」

「それ以上のことは言わない」



壁に向かって

難しい禅問答の公案を

考えさせるわけでもない。


「ただ座れ」です。



でも

ここでいう「ただ」とは

一切何も「無い」ということですよね?



「真理を求めたい」という

目的さえ持たないという意味です。



禅をするとき

「悟りの境地に入りたい」

そう思うこと自体がすでに

「自分の思い、欲望」に

とらわれていると言われています。



何も考えない

何も求めないで「ただ座る」



それを徹底すれば

自分が座っていることさえ

忘れることが出来る。



これが只管打座

曹洞禅の本来の姿です。



「これではいけない。

無心にならねば」と思う。


「無心にならねば」と思うことさえ思ってはいけないのです。



何も考えないとは、

考えてはいけないということも

考えないことです。



ただ、「無心」に

そこに座っていること。



禅が言うところの「無」は

そんなふうに表しています。




たとえば

数学の「ゼロ」を使った

例えもありますよね?



ゼロという概念は

インドで生まれたとも言われていますが


+でも-でもない0

どっちにも偏らない0

スタート地点のような0


一見はお釈迦さんが説いた

「中道」のような意味合いも

ありそうな「ゼロ」ですが


やはり坐禅の無とは

違うようにも思います。



0というのは

やはり0を表している。


-1の次で1の前にある0

水平軸に置くと真中にくる0



これは確かに存在するものであり

1や2をあらわすものと

存在意義はそんなに変わりません。



1ではなく2ではないものとして

0が存在しているわけです。



だから「無」=「ゼロ」は

少し違うように思います。



これはそのまま

「死」=「無」ではない

ということでもあります。



自分で考え

自分で体現するもの。



そのために

いくら言葉で「無」というのを

説明しても


それはあくまで知識であり

意味がありません。



坐禅における無というのは

「雑念」に惑わされず

「集中」している状態

と考えられていますよね。



例えば

何か物事に対して集中している時。


仕事に対して「無我夢中」に

一生懸命努力している時


「一生懸命集中する状態=無の状態」


これも一種の

「無」の状態ですよね?



仕事にしろ

家事にしろ

子育てにしろ

自分のやるべき事に集中していること


それを常に保っているのも

「無」の状態ではないかと思います。



無というのは

ある固定の一つではなく

人の数だけ

存在無数に存在するのですよね?



わたしが言うのは

それをいつまでも

「保っていられない」ということです。



「自分は無である」

と感じること 思うことすら

すでに「無」ではない

ということです。



禅や無のことを語るとすれば

悟った世界から

さらにまた迷いの世界「今生」に

還ってくることが重要です。



「平等即差別 差別即平等」

といわれるように

ただ悟って

それに浸っているだけでは

ただの自己満足です。



分別のない心をもった

無の境地を体験したとしても


いま生きている

私たちの世界は

差別の世界であり

分別のある「有」の世界です。



「僕は悟ったから 隠居して生活します」


「僕は悟ったから 死を待つだけです」

と言っても

それはただの廃人と区別ありません。



差別の世界で

いかに平等を実践するか

それこそが悟った人の

勤めのはずです。



「努力は無駄。

無になるかとこそが真実である」

というような思いも

「無我」ではないんです。



「努力をする大人」

または「努力をしろという大人が愚か」

というような考え方や


「並みの努力をできない人間」のことを

どうのこうのと おっしゃいましたが

それは貴方が「努力の定義」を

創造しているだけです。



ノーベル賞を取った人

宇宙へ行った人

エベレスト無酸素登頂を成功させた人



そういった方々だけが

「努力をした人」と

認めることが出来ないのも


自分本位で「努力の定義」を

創造しているだけです。



それもあって

私が「努力」ということを

記事にすることが許せないのかもしれませんね。。



「若い者を批判しているわけではない」

ともおっしゃいましたが

実は、批判しているんです。。


気が付かないところでね…



まぁ、、貴方がおっしゃるように

何もしてこなかったのに

「努力」を口にしている大人もたくさんいますが…



でもそれを言われるなら

私も同じです。


「どれくらいの努力をしてきたか?」

なんて自分では分からないですし


自分なりに「頑張ってきた」という

自負しかありません。

単なる自惚れに過ぎません。



話がそれてしまいましたが

貴方が

世間を蔑んだような表現をされることも

「無我の世界」にはあり得ない事です。



それは単なる「思い込み」の世界です。



全てのものが「有」の世界にいる

わたしたち人間が

「無」の世界を言葉にすること自体が

おこがましくもあり

真実ではないと思います。


仏さんじゃないんですから…



もし人間が本当の「無」というものを

会得することが出来るのだとすれば


それは「臨終の間際」もしくは

「臨終を迎えた時」ではないかと思います。



「無」であると感じることさえ

「無」ではないのですから。





長くなりましたが

「無」は一人でしか体現できない。



だから

それはどのようにしても

人に伝えられることは出来ない。

ということです。




「無」の概念とは

そういうものではないですか?



いくら論文で書いたとしても

論理的に説明したとしても

それがすでに「無」ではないのです。




「天才」とか「凡人」とか

差別心を持っているうちは

「無我の境地」には

まだまだ程遠いんです。


たとえ「天才病」と

医者から言われていようとも…



「無」を極めようとしたり

それらを感じようとすることは

とても素晴らしいことだと思います。



でも簡単に

「私は無の境地にいる」とか

「業を燃やし尽くした」などということは

口にしてはいけないのです。

絶対にね。



それは貴方が言う「僕の経験からして」

という見方も含まれます。



「唯我独尊の世界には居ない」

と言いながらも


「自分は異端児である」と

言ってしまう時点で


それは「唯我独尊の世界にいる」と

言っていることと

何ら変わりはありません。



「有」の世界に生きる人間なのですから。

仏さんじゃないのですから…



わたしの言うこと

分かりにくいですかねぇ…(^▽^;)



このように書けば

また論理的に返したくなりますよね?


それがすでに「無」ではないんです。



分かりますでしょうか…




でも「禅問答」のように

こうしてお互いの考え方や

公案を巡らしているうちに


本当に「無の境地」が

見えてくるのかもしれませんね(笑)



わたしには無理ですが…(;^ω^A



貴方はきっとすごい方なのだと思います(^^)

私なんかが及ばない知識も

たくさんお持ちだと思いますし。



でも「無の境地」に関してだけは

少し見解が違うような気がします。



最初に書いたとおり

私は宗教者でも研究者でも

哲学者でも何でもありません。



ですから「地獄の世界」とか「極楽の世界」とか

「無我の世界」とか

そういったものもは解り得ないですし

信じている訳でもありません。



ただ「いつかまた遇える世界」というものは

信じたい、あって欲しいなぁ…

とは思います(≡^∇^≡)



「大切な人」とまた遇える世界は

あって欲しいと、願っています。



こんなところですかねぇ…(;´▽`A``



お昼休みに猛スピードで書いてしまったので

間違った表現もしてしまっているかもしれません。



何かご指摘があれば何なりと言ってください…(^_^;)



気が向いたら

またメッセでもコメントでもしてくださいね☆


長くなりまして申し訳ありませんでした…m(_ _ )m