義家族と絶縁するまで -20ページ目

義家族と絶縁するまで

遺産相続で主人の姉兄弟達と絶縁。。
結婚から30年足らず。
その経緯を綴り、自分の記録としたい。

義母のお通夜、ご葬儀と家族葬だった。

なので、私の実家にも遠慮してもらって、と連絡があり、私も実家に伝えた。

確かに義姉兄弟の伴侶の里の人は誰も参列していなかった。

家族葬と言っても、子ども達の伴侶の里の人くらいは来てもいいのでは?と感じたが、

そうなった場合、義姉夫にはその頃、親族は妹家族しかなく、

遺産相続で絶縁のように聞いているので、おそらく参列しないだろう。

義姉にしてみれば、弟たちの伴侶の親族が参列し、

自分の夫の親族は参列しないという事態は受け入れられないだろう。

その事態を避ける為に、各々の親族には知らせないようにしたのではないかと

穿った見方をしてしまった。

こういう事を決めるのは必ず義姉であり、義姉はいつも自分の都合で事を決めるからだ。

それも、率直に自分の状況を話し、理解してもらおうと努力するのではなく、

自分に都合よく事を運ぼうとするのだ。

「私、夫の親族と上手くいってないから、兄弟の家族だけにしてほしい」という

率直な言葉は姉からは聞かれない。

本当に《立派な人間》になるべく努力をするのではなく、

《立派な人間》に見えるよう努力するのが義姉だ。

自分の子ども達が世間体の良い(……学歴が良いとか大企業に勤めているとか……)

相手と結婚した時には、親族一同(結婚している子ども達家族まで)召集する集まりをし、

その自分の子ども達が離婚した途端に、今度は子ども達まで抜きの集まりにするという、

とにかく自分に都合よく物事を決める。

我が家は他の義姉兄弟よりも子どもが幼かったので少なからず振り回された。

今までにそのような経緯があるので《家族葬》の集まりにまで、

そういう義姉の身勝手な采配があるのでは~と、穿った見方をしてしまった。

これは、私の想像だ。

葬儀一切、義姉の采配のもと、義兄夫婦が協力して事が運ばれていった。

義母の臨終の時にも亡くなってからしか連絡をくれない義姉兄弟であるから、

私たち家族の出来ること、やるべきことを連絡してくれることはなかった。

まるで、お客様のような居心地悪い中にも、お通夜の日の昼間に、

交代でお遺体をお守りしているのだろうと思い、

息子とご遺体のある葬儀会場に行ってみた。

そこで義姉に「え~っ!どうして来たの?来るなら来るで連絡くれたらいいのに。

ほうれんそう(報連相?)が大事やねん。帰って。」と言われた。

ほうれんそう(報連相)⁉

自分はキーパーソンと言い、ほうれんそう(報連相)が大切と言う。

自分はキーパーソンなのに連絡してこない貴方達夫婦は非常識と言うが、

キーパーソンとして連絡するべきことを連絡してくれる訳ではない。

報連相が大切だ❗と我が物顔で言うが、報告も連絡も相談もこちらはされたことはない。

お互いに連絡を取り合わない、常識はずれの親族でありながら、

自分だけ《まとも》だと思っている義姉。

私と息子はいつものことなので、さほど驚きもなく帰ることにした。

只、不愉快ではあった。

その夜、お通夜がごく身内で執り行われた。




義母が亡くなったという連絡を受けたのは、私達家族が夕食を終えた時だった。

事前に容態がよくないので集まるように…という連絡は受けていない。

私達家族が病院に駆けつけた時には、お通夜~葬儀の準備にバタバタしていた。

亡くなった義母の顔をみて自然に「お母さん、ありがとう」という言葉が出た。

私は亡くなった人の顔を沢山見てきた訳ではないが、

義母の顔は《穏やか》には見えなかった。

義母という人は、自身が成熟出来ていない大人であったのに、そんな自分に気付かず、

《立派な振る舞い》をすることによって、回りから認められると信じ、

《立派な振る舞い》をする自分にアイデンティティを見いだし、

普通以上に《しっかりした人間》として必死で生きてきた…

苦労と葛藤の人生だっただろうと思う。

《立派な振る舞い》をすることで自分に価値があると認識する生き方では、

他人が自分を立派な人として接しなければ、たちまち傷付いてしまう。

そして、もっと《立派に見えなくてはならない》と焦る。

自分の目標に向かって努力し、ごく自然に他人から尊敬され愛される大人になった人は

人の評価で自分のアイデンティティーが揺らいだりしない。

義母がそんな生き方をしてきた元凶は100%が生い立ちだ。

過去の記事に載せたが、継母に育てられ苦労したと聞いている。

義母の実父は当時に珍しいインテリだったそうで、義母の実母は船場のお嬢様だったそうだ。

(※インテリ…なんてざっとした表現でお恥ずかしい…

しかし、とうの昔に亡くなった義母の実父の情報は義母と義姉からしか聞いたことがない。

私の主人はほとんど覚えてないそうだ。

義姉曰く、その昔に自分のことを「僕」と呼ぶ祖父(義母の実父)は、

とてもモダンだったそうだ、、、)

そんな実母が亡くなり、がらっぱちで意地悪な継母がやってきたというドラマのような構図。

インテリな父親とお嬢様であった母親の血を引く自分…

というスタンスを義母は生涯貫いていた。

一方、既に亡くなった義父は商売人の家に生まれ、

職人であり、根っからの庶民派だった。

そんな義父をいつも義母はどこか馬鹿にしているところがあった。

貴方と私は違います、という感じ。

しかし、義母の実家はお菓子やさんだったのだ。

義母も義父と同じ商売人の子どもであり、客観的に見れば同じ立場の人間どうしだったのだ。

お菓子屋さんという商売人の娘…

そんなこと認めるも認めないもない只の《事実》だが、

それでは自分に価値があると感じられない劣等感があり、

そういう自分の葛藤にいっぱいいっぱいの人間はそれほどに自分が見えていないものだ。

客観的に見ればごく当たり前のことが認められず、

実母がお嬢様であったとか、実父がインテリであったというような危ういことに執着する。

実母が優しかったとか、実父はいつも継母から自分を守ってくれた…

という確かな愛に守られてこそ得られる自己価値観がないのだろう。

義母に本来の自分が見えていたなら、自分を立派に見せる努力ではなく、

自分と子ども達が幸福になるべく努力しただろう。

義母の努力は方向性を間違わなかっただろう。

そんな訳で義母の人生は苦労と葛藤に充ちていた訳だ。

義母の《やり方》は間違っていたが、義母と私自身には揉め事もなく、愛情を戴いた。

なので自然に「ありがとう」という言葉をかけた。





私達夫婦は、義母の最後の入院が、どういう事情からなのか、

何も聞かされてはいなかったが、後になって振り返れば、

あれは《終末ケア》だったと予測される。

私は《終末ケア》とは認識していなかったが、ちょこちょこ病院を訪れていた。

私が病院を訪れる時間は、主人の仕事場での手伝いと、

自分自身の自営業との合間だったので、いつも同じ時間帯だった。

それが丁度、他の義親族のお見舞いと重ならなかったのか、誰にも逢わなかった。

1つ前の記事に書いたように、私が訪れたある日、義母の呼吸が苦しそうに見えたので、

看護師さんにその旨を伝えたが「はい、はい」という軽い感じだった。

なので、取り立てて義母の様子が悪化したというより、

これが義母の状態なのだな、と解釈した。

しかし、この日が義母を見舞って病院に訪れたい最後の日となった。

この日、初めて病院を出たところで義姉夫婦に逢った。

「○○さん(私の名前)!」と呼び止められた。

そして次の義姉の言葉は…

「貴女、来客名簿に名前書いてくださってる?」だった。

(* ̄◇)=3

いいえ、書いたこと、ありません!!

と、答えた。

ナースステーションにある来客名簿に、私はあえて名前を書かなかったのだ。

義母が最初に入所した施設にも来客名簿があった。

私はいつも書いていた。

ある時、義姉から電話が掛かってきて

「貴女が1ヶ月か1ヶ月半に1度くらい母を見舞っていることは分かっていますけど、

ただ行くだけだったら意味ありませんから!」
と、言われたことがある。

何故、間を開けて見舞っていたのか、過去の記事には書いたので省くが、

義姉は、私が訪ねていた間隔をかなり正確に把握しており、粘着質な性格にかなり引いた。

私と娘は本当に気持ち悪い❗思いをした。

なので、それからは来客名簿には名前を書かないようにしていたのだ。

それから何年も経っていたので、うっかりしていたが、

やはり義姉は来客名簿で私達家族の動向をチェックしていたのだ。

この時に出逢わなければ《見舞いもしなかった貴女達夫婦!》という、

義姉の常套文句が増えていたかも知れない。

この日、私から見て義母がいつもより苦しそうだったのはある意味、的を得ていて、

義母は人生の終わりを迎えようとしていたのだ。

私の実父も最期はホスピスで終末ケアを受けて亡くなったので理解しているが、

病院側はもう最期を迎える患者は分かる。

そして、その旨、家族に伝える。

キーパーソンなら、

実の弟の一人である私の主人にも、

義母が最期をむかえようとしていることを

伝える義務があっただろうが、

義姉はそれをしなかった

翌日、義母は亡くなった。

実子の中で次男である主人だけは臨終の場に居なかった。

亡くなったという連絡を受けてから、私達家族は病院に行ったからだ。

義姉は本当に罪深いと思う。