安徽省の黄山市黄山区の太平県で作られているという太平猴魁
この太平猴魁は穀雨の少し前につみ取られ、製茶された新鮮なものです。

変わった形の茶葉に驚く人もいるこのお茶。
かごの上にのせ、あぶるような形で殺青が行われることから、茶葉にもくっきりと編み目が付いています。
葉っぱもかなり大きく、大きいものは10cmぐらいになるでしょうか。
この茶葉の大きさは、緑茶の中でも群を抜いています。形が変わっているからと購入する方も多いくらいです。

食べると香ばしく、見た目も手伝ってか、まるでおつまみを食べているような感覚です。

お湯を差し、湯飲みに出た水色からは想像できないほどのコク、そして香り。

素晴らしいお茶に今日も出会えたことに感謝したいと思います。
今朝ぐだぐだの状態で出社して、やる気ゼロの状態だった私を、1杯のお茶が180度目方向転換をさせ、目覚めさせてくれました。

そのお茶は、鉄観音

師匠が、蘇州へ行った時に古くからの友人にもらったものでした。


自分自身の力を振り絞ってやる気になったのではなく、わき上がるように力が目覚めたって感じでしたね。

ドラゴンボールの仙豆を思い出しましたよ。

古くから神仙思想と結びつきが強くあるお茶。納得ですね。
安吉白茶として世に登場したのは、1999年の浙江銘茶コンクールと第3回中茶杯。
それ以後、各地のコンクールで賞を受賞しているこのお茶の木は、栽培される範囲を拡大している。

浙江省の安吉県天荒坪鎮大渓村の桂家場に樹齢100年を越える野生の白茶欉が1本残っていて、それを茶葉研究者があれこれ改良を加え1998年に認定された品種のようです。
その後、2001年に全国で初めて茶葉原産地保護証明商標を取得したお茶です。

現在このお茶は、株分けをされて、安吉県を飛び出し、いろいろなところで芽を出しています。
最初にそんなこころみを聞いたのは、径山。杭州の茶館の主人が白茶種の木を移し、あらたな緑茶を作っていて、それを飲ませて頂いたことがあります。
それはもう3年ほど前の話になるでしょうか。
その時はお茶好きの単なる趣味という認識しかなかったのですが、今ではそんな状況が大きく変わってきています。

安吉白茶というなまえのお茶を大量に生産して売り出すために、安吉県を飛び出し生産された安吉白茶もあれば、
白茶龍井といったように白茶種の木を使って新たなお茶を作り出したりいろいろな広がりを見せています。

優良な品種を使い、新しいものを作り出すというのは当たり前の行為です。

さてさて、今後の展開が楽しみです。



4月20日。穀雨、中国語では、谷雨と書きます。
穀の簡体字が谷であるから谷雨とかくそうです。

穀雨より前に摘み製茶されたお茶は雨前茶と呼ばれます。

私個人の意見としては、清明節前に作られる明前茶は、芽が若く、弱々しくて日持ちがしない気がします。その点、雨前茶はしっかりとしたお茶となっており、夏を越えても美味しく飲めるお茶に仕上がっていると勝手に思っています。

値段も味も落ち着いてきているお茶がそろそろ市場に出回っている頃でしょう。
中国からある研究誌が届きました。

ページをめくってみると、なんとそこには茶友の姿がありました。
昨年の春、江南地方のお茶をめぐる旅をした後、アメリカへと旅だっていった友人です。

どんな意味かはご想像にお任せするとして、ある意味私にとって先生と呼べるそんな人です。

偉い先生達とともに写っているのですが、まさかこんなところで見かけるとは。
恐らく何台かのカメラで撮影されたのでしょうね、視線が別の方へ飛んでいます。

バイタリティあふれる友人は、今でも中国茶を飲んでいるのだろうか。
学業?が忙しく、お茶なんてたしなんでいる場合でないのかも知れません。

日本にいた頃の友人のお茶を飲む量からすると、今頃酸欠ならぬ茶欠になっているはずだと思うのですが、おそらく別の友人達が友人への供給ルートを保っているのでしょうね。

そんな茶友は今年の新茶を飲んだのでしょうか。久しぶりにメールでもしてみようと思うのでした。
新民晩報にこんな記事がありました。 記事はこちらから→新民晩報

上海の西に最近観光地として有名になっている朱家角というところがあります。上海にゴルフをしに行かれたことがある方にとっては、淀山湖といった方が良いかも知れませんが、そんな上海の西の端っこに向かう少し手前に、佘山という森林公園があります。

その西佘山に古来より茶園が存在していたようなんですね。
上海で唯一のこの茶園のお茶の生産量は、年間500kgで明前茶は20kgしか作られていないようです。

この一つの茶園があるからといって、上海全体を茶産地だということはできないようです。

実は上海にいる友人がこの茶園を15日の日曜日に訪れ、今日その時の写真を送ってきてくれました。
立派な茶園だと思います。

近いうちにここのお茶が届くかも知れません。その時はまたレポートさせて頂きます。


風邪気味かと思い、薬を飲んだのが原因かどうか分かりませんが、先週末に便秘となっていました。
こんなところで、発表するような内容ではないのですがね。

毎日決まって出ているものが出ないと言うのは、これほどつらいものなのかということを経験して初めて知りました。
2日目にカラダの異変に気が付きました。
これはやばいと思い、早速伝家の宝刀を抜くことに。

そう、普洱茶です。

私はこの普洱茶に弱く、おちょこ程度の飲用杯に注がれた一杯の普洱茶でも、お腹の調子を崩してしまう。そんな危険な代物なんです。
そんなことは言っていられないと、金曜日からお茶を普洱茶に変更し、ジョッキ程度の大きさの体熱グラスになみなみとつぎ、浴びるように飲んでみました。

これはほとんど人体実験ですね。

まぁ、これですぐに体調も改善されるだろうと思っていたのですが、とんでもない。
金曜日は全く反応もなく、翌土曜日には顔に吹き出物が出る始末。

これはえらいこっちゃと、土曜日も再びプール茶を飲んでいました。

で、結局町の調子が回復したのは、日曜日の夜・・・。
果たして普洱茶の効果なのかどうか。

私の中の普洱茶神話が音を立てて崩れた数日でした。

いろんな人に普洱茶のおいしさを伝えるために飲んできたことで、からだが普洱茶に順応してしまったのでしょうか。それとも今回の具合が相当良くなかったのか。今後のためにももう少しからだが回復してから、実験を重ねてみたいと思います。


話は変わりますが、2007年4月8日、雲南省の南にあります思茅市が普洱市に改名されていました。

プーアル茶と表記されることの多い普洱茶。2文字目が日本語として縁遠い文字だからでしょう。

宇治茶や狭山茶といえば当然のように緑茶をイメージするようなそんな感覚がこのプーアル茶にはあるようです。

もちろん普洱県では、緑茶も紅茶も生産されていますのですが、黒茶に分類されるあの香港や広東の飲茶(ヤムチャ)の時に出てくるようなお茶があまりにも有名となってしまったので、あのお茶をプーアル茶と呼ぶようになったようです。

現在の雲南省思茅市普洱哈尼族彝族自治県(ぷーあるはにぞくいぞくじちけん)がこのお茶の集散地として有名でしたので、いつしかあのようなお茶を普洱茶と呼ぶようになりました。

「これどこのお茶?」
「あぁ、それ普洱産だよ」

そんなやり取りが重ねられるうちに、産地のことを全く知らない商人に伝わり、「普洱産のお茶」から「普洱茶」へと変化したのでしょうか。

もしくは、唐代などの昔には蒙頂茶や六安茶、紫陽茶といったざっくりとした表現がなされていたので、昔風の呼び方のままといえばそうかもしれません。
他の地方では、今は多くの種類のお茶を作るようになりネーミングも細分化しましたが、この思茅を中心とする地域では、細かい普洱茶の種類が創出されなかったので、普洱茶という単純な名前だけが存在するのかも知れません。

あとは、漢民族を対象とした商品ではなく、チベットやモンゴル、東南アジアの国々を対象とした商品だったというので、詩的な表現を持ったネーミングをつけなかったのかも知れません。嗜好品ではなく、あくまでも商品としての性格が強かったのかも知れません。

そんなお茶が、今ではバブルのような大ブーム。
世界的に認知度が上がり、とうとう自治県が市を飲み込み、思茅市が普洱市に改名されることとなったようです。

思茅という名前は、思茅区として名前が残るようになったそうです。

また一つ時代の変化を見届けた気がします。
中国における茶農家の事情が急激に変化を遂げています。

これは、まだ沿岸地域や一部の地域に限ってのことかも知れませんが、かなり裕福になっています。

それにともない、茶農家であった方々は地主のような立場になり、茶摘みをする人、製茶をする人、選別をする人、おのおの各部署に働き手が雇われ、茶産業に従事するようになっています。

例えば茶摘みをする人は、地方からの出稼ぎが大半を占め、茶摘みをした量によってお給料が決まります。
歩合制とでも言いましょうか、一籠いくらといった感じで茶摘みをした人は、雇い主に買い取ってもらう、そんな仕組みです。

自ずと質より量が優先され、質が落ちるばかりです。良いものが一般の消費者に届くことはあり得なくなってきています。

観光地化している茶農家では、質が悪くても、この土地で採れたお茶は最高のブランドですと言って売れば、茶葉の善し悪しなんて分からない通りすがりのお客様はよろこんで大金をはたいてくれる。

質が上がる要素は今のところ見あたりません。

日本の茶産業もこのような経路を辿ってきたのでしょうか。

中国茶の行く末が心配です。
今日は世界史のお話を。(アホほど長いです。)
アヘン戦争について、少しだけ勉強していました。今の時点で理解できたことを少しずつ整理をする意味で書いてみたいと思います。

まず、アヘン戦争が起こった時代背景を・・・。

その前に、年号の整理を。
1729年    アヘン禁令
1780年    再びアヘン禁令。東インド会社がベンガルのアヘン専売権を獲得。
1799年    ケシの栽培禁止令。
1832年    東インド会社の対中独占貿易権が剥奪、自由貿易へ。
1834年    商務監督官ネーピアの着任。
1838年11月 林則徐 欽差大臣に任命される。
1839年2月  林則徐 「アヘンを持ち込まない」という誓約書の提出を求め、アヘンを没収、処分。
1940年2月  イギリス政府 清国への派兵を決定。
1840年7月 イギリスの艦隊が天津沖へ。 
1840年11月 広東和議で香港の割譲を要求、拒否。
1841年1月  戦闘開始。   
1842年8月  南京条約(江寧条約) 多額の賠償金と香港の割譲、5つの港の開放。

ざっくりとこんな感じでしょうか。

■時代背景

で、この事件にお茶が絡んでいるのですが、どういった絡み方をしているかといいますと、貿易商品として登場しています。

インドのアッサムでお茶が作られるようになったのは、この事件ののち。
ですから、欧米諸国が購入するお茶は、清国産だったんです。

清という国は、豊かな国で、よその国からあえてものを購入する必要もなく、外国からの要望に応えて、哀れみを与える感じで通商を行ってあげるという形式をとっていた。そのため、広州だけを開港するだけでも充分でしょうといった態度だった。

一方のイギリスは、陶磁器やお茶や綿製品といったものを中国から購入し、貴族社会で流通させたり、アメリカへ転売して商売していたりと清国からものが欲しくてたまらないといった状況にありました。総輸入量に占めるお茶の割合も半数以上を占めていたこともあるようです。

そんな状況に追い打ちをかけたのが、お茶の関税の引き下げ。
これにより、一般大衆にまでお茶が広がり、イギリスでのお茶の需要が拡大したため、清国からお茶を買い付けることがますます必要となりました。

で、そんなイギリスなどの諸国が清国からものを購入する見返りに使っていたのが、銀なんです。
物々交換のこの時代。欧米諸国が交換できるものといったら、銀ぐらいしかなかったようなんですね。で、この銀はメキシコといった中南米諸国からヨーロッパに持ち込まれた銀が使われており、清国でもメキシコ銀・スペイン銀が沢山流通していたようです。

この銀の流れや需給バランスがアヘン戦争を導いたと言えるかも知れません。

■戦争前

大量のお茶を輸入して、その代わりに銀を渡していたイギリスにとって決定的とも言える商品が登場します。
それがアヘンです。

アヘンの効果は抜群であったようで、しだいに清国側はお茶の輸出量では足らなくなり、今までだぶつくぐらいにあった銀を持ち出すぐらいにアヘンを購入するようになったのでした。

アヘンの大量輸入が問題となったのは、もちろん人体に与える影響もあるのでしょうが、清国政府にとって重大な問題となったのは銀の大量流出による国内での銀相場の高騰でした。
清国は銀本位制をとっていたので、税金を納めたりするのも銀1両といった具合で決められていたんです。
でも、農民たちは銀なんかでなく、銅を使って税金を納めていた。銀と銅の間には勿論交換比率があったんですが、銀が大量に国外へ持ち出されるようになると自ずと交換比率も変動し、アヘン戦争時には昔に比べ2倍以上の値上がりがあったようです。

アヘンを吸っていない善良な市民にとって、これはたまったもんじゃありませんよね。実質的な大増税を招きました。
清国政府としては、このままでは反乱が起きかねないといった心配をしなければならなくなりました。

そんな状況を尻目に、アヘンの密輸は止まるどころか、増えていくばかりでした。

なんな状況の中、東インド会社が持っていた独占貿易の権利がなくなり、自由貿易が開始されることになりました。
東インド会社が統括していたものを商務監督官が派遣され、管理することとなったのが1834年。
ネーピアという総帥が、着任後様々な要求をしたんですが、全て跳ね返され、逆に通商の停止や退去命令、挙げ句の果てには、清国側の戦艦に包囲されるという事態に発展。ここぞとばかりに戦艦2隻を広州に呼び寄せ、清国艦隊に打撃を与え、マカオに避難。そして、最終的には自由貿易開始後の通商に問題があってならないと判断し、ネーピアが着任ご2ヶ月で引き下がるという小さな衝突が起きました。
この衝突により、清国側の戦力が脆弱であるということがバレてしまいます。

このようなことが起こり、清国政府内でも、アヘンの通商を許可しようとか、いやだめだといった論争が起こり、最終的には黄爵滋のアヘン厳禁という奏議が出され、それを受けて林則徐がこの舞台に登場することになります。

■戦争点火
林則徐が欽差大臣という特別な指名を受けた大臣となり、広州へ到着するやすぐに、「もうアヘンを取引しません」という誓約書の提出を求め、今あるアヘンを全て没収するという強行策をとりました。没収したアヘンは今でも広東省の虎門にある記念館に残っている大きな池で処分されました。

林則徐は、通商を全てストップすると言っておらず、あくまでもアヘンの取り扱いさえ止めれば、その他の取引はどうぞ今まで通りやって下さいといっただけでした。これに反発したのがイギリスです。アメリカなどはさっさと誓約書にサインをし、イギリスができない取引を引き受け、巨額の利益を上げたようです。

この時のイギリスの商務監督官はエリオットという海軍大佐だそうです。彼は最後まで強硬に抵抗したのですが、またもやイギリス商館を包囲され、兵糧責めにあい、なくなくアヘンの提供に応じています。でも、誓約書にサインをすることを禁じたまま、広州から全イギリス人に退去を命じました。そしてマカオへ行ってしまいます。

その後、イギリスと清国との間で一悶着あった後、誓約書にサインをしないまま、取引を再開しようとしていた矢先に、イギリスの商船が密かに誓約書にサインをし広州に入ってしまったことで、清国側が一転、再び誓約書の提出を求めることになります。

当然エリオットは反対、それどころか強攻策に出て攻撃を行い、清国側に軟化を迫ります。

もう収拾がつきません。

道光帝は怒り、イギリスとの通商を断絶せよ!と叫び、イギリス本国では、追い出されたアヘン商人たちのロビー活動により、議会で僅差ではありますが清国への派兵が可決されます。

1840年7月、イギリスの戦艦は、広州でなく、今の浙江省舟山列島に到着し、占領。その後天津へと向かいます。

北京の目と鼻の先である天津にイギリスの艦隊がやってきたことで、清国の政府も動転します。林則徐は更迭され、停戦協定が成立します。停戦を受けて、艦隊は広州へ引き上げ、広州で交渉が開始されます。

交渉では、清国側の謝罪、賠償、港の開港、そして香港などの割譲などがイギリスから要求され、それを知った皇帝が再び激怒して、交渉は決裂。交渉期間中に軍備を整えたイギリス側の攻撃が再び開始されました。1840年11月のことです。

それ以後、イギリス側の一方的な攻撃のなか戦争は続き、1842年に南京近くの鎮江が陥落し、道光帝も観念し、屈辱的な和議に調印することとなったようです。これが、南京条約と高校の時に習った条約です。

この条約で、香港の割譲、広州・厦門・福州・寧波・上海の開港されます。多額の賠償も要求されました。

■まとめ

長い話でしたが、ざっくりとしたアヘン戦争の内容だと思います。

アヘン戦争とは上手く名付けたと思いますね。イギリス側が誓約書にサインをしていれば、ここまで歴史は動かなかったと思います。アヘンを清国に売りつけたいという思いがこの戦争の根幹にあり、そのきっかけにお茶が係わったという感じですね。

この勉強を通じて、良い勉強ができました。
まず、アヘン戦争にはいるまえに、明代から清代に到る歴史の流れを勉強させて頂き、今まで避けていた中国史を知ることができた。それとアヘン戦争が、高校の歴史でならったもの以上の世界的な流通の渦の中で起こった出来事であったこと。

南京条約の港の開放をきっかけに、それまでは、広州を拠点として取引されていた外国への茶の輸出が、厦門や福州でも行われることで、中国国内のお茶の流通に変化が起こったこと。これは大きな事だと思います。
武夷山で作られたお茶が、わざわざ江西省南昌をとおり、南下して広東省へ動いていたのが、南昌から九江へ出て長江にのり、上海へ流れることもあったり、武夷山から福州へ運ばれ取引されるようになったり。

紅茶の生産地の伝播についても参考となるかも知れません。あー、疲れた。

温家宝首相が来日中です。

明日は、京都の周恩来元総理の記念碑を訪れるとか。


雨中嵐山の詩にある印象的なフレーズ。


瀟々たる雨 蒙濃たる霧、一筋の陽光 雲を穿ち出で、

いよいよあでやかに見える。

人間万象の真理もいよいよ求めれば、いよいよ模糊たるものになる。

模糊たるうちにたまたま一点の光明を見れば、

まこと いよいよあでやかなるを覚える。


この詩を詠み、周恩来さんは中国へ戻り革命へと身を投じられました。

この詩を日中友好の詩として言われているのですが、本当にそうなのでしょうか。
紹介した部分より前は、嵐山の美しさを表現されているのですが、後半部分の思いを表している部分を読めば、和やかな友好ムードなんか感じることができない気がします。

希望の光をどこに見いだし、一歩踏み出したのか。
その後の行動をみれば、一目瞭然です。

さて、模糊たる中国茶の状況の中、私はどのような光明を見いだすことができるのでしょうか。