羽柴秀吉奉納懸仏(舎那院蔵) | 茶々姫をたどる汐路にて

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「秀吉が長浜城主時代に実子がいた、しかもどうやら一男一女がいたらしい…」

この話の「一男」というのは、かなり有名になりました石松丸秀勝のことです。

そして「一女」、この存在を示す根拠として有名なのが、今回取り上げる懸仏です。


http://ameblo.jp/my-you/entry-10691044457.html近江毎夕新聞 ) より


この懸仏、私が想像していたよりもとても大きなもので、両手で抱えるのがやっと、というくらいの大きさでした。

裏は木組になっており、そこに墨書でこの懸仏について書かれています。


     江州北郡

      羽柴筑前守殿

               天正九年

      御れう人甲戌歳

     奉寄進御宝前

      息災延命

               八月三日


      如意御満足処

     八幡宮


羽柴筑前守(秀吉)が天正九年八月三日付で、「甲戌」(天正2〔1574〕)年生まれの「御れう人」の息災延命祈願のために、この懸仏を長浜八幡宮に奉納したことが分かります。

この「御れう人」とはすなわち「御寮人」のことで、一般的には高貴な女性を指します。このために、秀吉の「娘」として扱われていました。

しかし、展示解説いわく、「御寮人」という言葉は江戸時代以前には男女問わず用いられるとのことで、女性を指すとは限らないそうです。


ちなみに、石松丸の生年は元亀元(1570)年ということですので、石松丸と同一人物という訳ではなさそうです。

天正二(1574)年生まれ…石松丸より四歳年少ということになります。

この懸仏が奉納された天正九年当時、数えで八歳の幼い子が秀吉の周囲に存在したのは間違いないようです。


養女として秀吉に可愛がられる養女豪姫(前田利家の娘)が天正二年生まれとのことなので、この豪姫のことでは?とおっしゃる方もいます。