病気になって、2ヶ月ほど経った秋。
それほど痛みも変わらず、
ボールは触れないものの部活には通院以外行きボール拾いや練習試合には審判をしに行っていました。正直に言うと、病気になったからって変わらないやん!このまま行けばまたバレーできるかもしれん。と希望を抱いていたのでしょう。
勉強も普通ラインでしたし特に変わりませんでした。
変わったことと言えば体重が太っ
てきたこと。そうステロイドの服用です。
副作用でムーンフェイスになっていき、食欲のコントロールができず食べてしまう。発症当初40キロ台であったあたしが50キロ台になったのでした。痩せるなんて簡単、気持ちの問題だ!と思い込んでいたあたしは特に気にせず食べたいだけ食べていました。
トライやるウィーク、と言う名の職業体験。ある事件があって、社会性が身につくようにと作られたものだそうです。特に痛みがひどく行けない日もありました。
ここから、不登校への道は始まりだしたのでした。
そして、病気の進行が若い分早く進み、性格も積極的で明るいから冷めている、へと変わっていったのです。
念願の夏休みとも言えない状態が続いていました。部活も痛くて庇うあまり顧問の先生に怒られました。私の痛みは誰にも理解されませんでした。
どんどんひどくなるあたしの手の痛み。血液検査から逃げてきた私ですが、とうとう検査をした結果CRP1.1この数値は一生忘れないでしょう。
大きな病院とやらに紹介され、精密検査をすることになりました。
RF+だったので、ここで私が若年性関節リウマチと診断されたのでした。
2007年の8月のことでした。
関節リウマチなんて聞いたことはあったけどこんなに若い年でなるものか私にはよくわかりませんでした。いつか治る病気でまたスポーツもできて、遊べてそんな日々が戻ると思っていました。でも、告げられた一言は20まで生きれるかわからない。普通の人よりは生きれないと思ってね。
14歳の私にとってはあまりにも衝撃的でした。確かにその頃はやっと生物学的製剤が認可されたころでそこまでリウマチ自体の治療も発展してなかったですし、10万人に一人の割合で発症するためデータもそこまで多くはないからわからないというのも正直あったのかもしれませんね。
そこから、私は未来に希望を抱くことはなくなりました。
徐々になんで私が。人よりは真面目で、何事も一生懸命で、みんなのためにって動けると思ってたのに、どうして同学年でタバコ吸ったり、悪さしたりしてる子が普通に健康でいられるのにどうして良い子といわれるところに分類されるようなあたしがこんな病気にならないといけないのか。
すごく腹が立って仕方がありませんでした。正直、死ぬかもしれないと死を意識して泣いたこともあります。
親もそうであったみたいです。遺伝ではないため親自身責めなくてもよいのに。
自分の子供が健康で生まれてきて成長してきたのに、途中で病気になる普通じゃなくなる。そういう経験をするのはどうなんだろう。今なら親は強いと言い切ることができます。
そんな夏。誰にも理解されずただ孤独で痛みと戦うしかありませんでした。
クラスも変わりガラッと環境が変わりました。痛みや左右対称の関節の腫れは強くなる一方でした。
それでもあった野外活動。本当は痛くて何もしたくなかったがなんとも言えないし、説明ができない自分は参加するほか選択肢がなかった。

部活も痛みはありながらも、身体をかばいながら休まずやっていました。
それがサボっているようにも同級生には見えたのでしょう。無視。いわゆる、シカトというものが始まったのです。
はい。はい。いつものね。という感じでどちらかといえばターゲットが私に変わっただけでという感じでした。
痛みでそれどころじゃないのでそこまで気になりませんでした。ある意味精神年齢が高くて勝手にしとけばしょーもないと思える自分だったからこそ不登校になることもなかったのだと思います。気にする性格ならなっていたでしょうね。

やっぱり、手がおかしい。漠然とした気持ちはどこにもやりようはなくただ変わりのない毎日を過ごしていました。