工具マニアで困ってます -15ページ目

工具マニアで困ってます

営業職なのに工具大好きで、営業中にホームセンターに入り浸り・・・

帰宅時刻をみると、最も多い帰宅時刻は、男性が午後九時~十時の間で、女性は七時~八時である。夜中の十一時から午前一時までに帰宅する男性がこ子四%もあり、平均帰宅時刻は、十時三十四分。女性では八時二十八分となっている。 就寝時刻は、男性は午前零時~零時二十九分の人が、三〇%で、その前後三十分の時間帯を含めると五五%になる。男性は、ほぼ二十四時頃、女性は二十三時頃に就寝している。


帰宅して就寝するまでの時間は、男性が一時間二十分、女性が二時間四十分となっている。起床時刻は男女ともに、朝七時から七時四十四分までの間に半数以上が起きる。帰宅して就寝するまでの間に何をしているか、をたずねると、テレビをみる、夫婦、家族との団らんという答えが多い。女性はそのあと、家事や、整理、片づけがつづく。平日、男性が家事をやることはほとんどない。


注目すべきは、どんなに遅く帰っても、睡眠時間を犠牲にしてでも、人間は、帰宅後、一時間半の時間を必要としていることである。つまり、勤労者は、帰宅して、夕食をたべたり、テレビや新聞を見たり、入浴したり、夫婦で会話を交したり、家庭内のこまごましたこと、身のまわりのことをすることによって「自分自身をようやく回復させる最低限の時間」をすごしていることがわかる。


私自身の経験からも、どんなに遅く疲れて帰っても、すぐ就寝して、翌朝また出勤、ということはなかった。それではあまりに味気なく、牛馬のような一日になるからである。わが家に帰って、たとえ一時間半でもこまごまと家庭内で自分のことをしているうちに、人間としての自分自身をとり戻す、というのは、本当に身につまされる体験である。


だから、残業時間が長くなるほど、就寝時刻がおくれるのは当然の結果だろう。十時間までの残業なら、深夜零時以前に就寝できるが、残業五十~七十五時間では、零時三十四分となり、百時間をこえると、一時から二時になっている。つまり、残業が月に三十~四十時間までは、七時間の睡眠時間を確保できるが、五十時間をこえると七時間を割り、五時間にまで短縮されているのである。


ドイツが国境を越えている、越えていった様子をいくつかの場所に即して見てきた。国境といっても、ことにヨーロッパ大陸の場合、もともとが必ずしもはっきりした境界がめったわけではない。境界といっても「虹」のようなもので、ひとは虹が七色だというが、七つの色の境目がはっきり見えるわけではあるまい。いろいろな民族が混じり合って生きてきたのは、今まで見てきた東の場合だけではない。たとえば、ドイツとフランスとの間のアルザス・ロレーヌ地方は、ここに国と国の境があるほうが不自然な感じである。例は他にいくらもある。


国民国家の成立で、虹が七色にはっきり区別されているかのように錯覚し、はっきりと塗り分けたのが現代の悲劇を生む原因、の少なくとも一つであったのだろう。アルザスに生まれた父をもち、姓もドイツ風のフランス人、アンドレージークフリートは、「地理的な枠が欠けている」のがドイツの宿命で、そこにすむドイツ民族には「国境から溢れでょうとするたえざる本能」があると指摘する。こうした宿命が生んだ最悪のケースがナチスードイツの武力侵略だったのだろう。


しかし、過去において、「国境から溢れで」ていったドイツ人がいつも武器をもち、暴力を振るってきたわけではない。すでに見たように、望まれて入植し、農業技術、都市建設など西ヨーロッパの先進文明をもってくるというので歓迎されていた面さえある。たとえば、ドイツの東方植民の全体について、ミュンヘンの東ヨーロッパ研究所の所長だったハンスーラウパッハの評価は高い。「東部ミッテルーオイローパを精神的・物質的に決定的に刻印」していたのはドイツ人であって、その「東方運動」は「それまで未利用だった生活圏への平和的浸透」であり、ドイツ人の「東方植民は、唯一とはいわないが。もっとも重要な近代化の担い手だった」というのである。


かつての「東方植民」については、こうした肯定的な評価ばかりではないのは当然である。「重要な近代化の担い手」による支配に対する反発が繰り返されてきたことはすでに触れてきた。民族国家の成立以前にも、民族を単位とする抗争の例にはこと欠かない。ただ、求められて国境を越えていきながら。結果として紛争をまきおこし、悲劇を生んだ、という両面は見ておくべきだろう。「文明化とドイツ化の傾向は、成果をあげるとともに悲劇的な結末も招」き、「ドイツ人は東の近隣諸国に恐怖心と魅力、脅迫と模範の混じり合ったものをもたらした」(ジャックールプユク)のであった。


そのドイツは今また、似たような状況に置かれているように見える。ポーランド、チェコスロヴァキアがドイツからの投資と技術を必要とし、待ち望んでいながら、善隣友好条約ではドイツ人の定住・営業権を認めようとしなかったのは、そういうドイツへのアンビバレントな感情の表れであろう。しかも、「いずれは来ヨーロッパでドイツが支配することになる運命にほとんど諦め顔が見られる」とドイツ人のポーフンド問題専門家は指摘するのである。


このような状況は西側にも波紋を投げかける。フランスの一外交官が一九九二年一月の『ルモンド』紙に寄稿、九一年初めの段階で、チェコスロヴァキアでの合弁事業九五〇件のうち、五四六件にドイツまたはオーストリア資本が参加しているのに、フランスが参加しているのはわずか二三件だけだと苛立たしげに指摘していた。旧西ドイツは旧来ドイツの経済建て直しに手足を縛られているかに見えるが、それでもすでにこれが実情である。


当のドイツでは。アレンスバハ世論調査研究所が一九九二年二月に発表した、政財官界のトップを対象にする世論調査結果によると、今後のドイツが中、長期的には来ヨーロッパに傾斜していくとの見解が多い。「東ヨーロッパでの変革の結果、ドイツは中、長期的により西ヨーロッパに傾斜するか、東ヨーロッパに傾斜するか」という設問に対しては。全体では「西ヨーロッパに傾斜」が一九パーセントに対して「束」が四六パーセントであり、「ドイツ経済の将来は、西ヨーロッパか東ヨーロッパか」には、「東ヨーロッパ」が全体の五五パーセントを占める。ドイツの重心が東寄りになっていくことを示しているが、その結果、対東ヨーロッパ政策についてドイツと他の西ヨーロッパ諸国との間に意見の衝突が起こりうると見る人が三〇パーセントを越えている。


ズデーテンードイツ人らがボヘミア、モラヴィアの街の復興に協力している例は他にも多い。これらは国境、民族をこえた友好関係の基本になりうるだろう。ただ、「なりうる」のであって、「なる」のではない。実際のところ、ボヘミアの歴史は、三〇〇万ドイツ人の追放にいたる、民族共存の失敗の歴史でもあった。第二次大戦の悲劇を経験する以前、一九一八年にチェコスロヴァキア共和国が発足したころのドイツ人とチ ェコ人との間の感情は、すでに次のように要約されている。


ズデーテンードイツ人はチェコ人を、ドイツ人の庇護のもとに発展しながら、政治的には狭量で信頼がおけず、社会的にいつも不満をもち、自民族の利益をもっぱら追求する存在であると考え、他方チェコ人は、ドイツ人を侵略者、冷酷な征服者、世界的ヘゲモニーの主唱者とみなし、社会的・政治的にチェコ人を隷属させようとするものと考えていた。


こうしたチェコの人びとの意識に、「共産主義を裏切った社会民主主義者」という戦後のイデオロギー教育の結果が重なりあう。一方で、ドイツ人は「追放」を忘れない。これに対してハヴェル大統領に代表される、力強い和解の言葉も聞こえる。たとえば、大統領は繰り返し次のようなことを語る。「プラハではドイツ人もチェコ人も、ポーランド人もハンガリー人も一緒に学んでいた。どの言葉を話しているかは問題ではなかった。プラハにはユダヤ人とチェコ人とドイツ人の共生が成立していた。カフカがいい例だ。純粋なプラハ人で、同時にドイツ人、同時にユダヤ人だった。」


ここにはミッテルーオイローパに特徴的な、さまざまな民族の共存を活かそうという姿勢がある。ドイツの側からこれに共鳴するのが、「新しいドイツ」を代表するといわれるヴァイッゼッカー大統領で、率直に自らの非も認め、「過去の克服」の努力を重ねている。六〇年代末から七〇年代はじめにかけての東方外交で、東ヨーロッパとの和解の先鞭をつけたブラント元首相が、「別のドイツ」への信頼を築いた上にだってのことである。


「ビロード革命」のあと、『プラハ新聞』というドイツ語の新聞が出始めている。「ボルツァーノ協会」という組織がバックである。一七八一年にチェコ人を父、オーストリアの女性を母に生まれたベルンバルドーボルッアーノというカトリックの神父、哲学者、数学者の名をとった組織である。「ドイツの舌をもったボヘミア人」、つまりドイツ語を話すチェコ人だといい、終生ヨーロッパの中央での諸民族の相互理解に努めた、と評価が高い。ボルッアーノというのはドイツ語でボーツェン、ドイツ人の多い南チロル地方の町の名でもある。遠い祖先はそこの出だったのだろう。今はイタリアだが、第一次大戦まで長らくオーストリア領だった。ボヘミアとも似て、「民族国家」が太い国境線を引く前は、少なくとも二つの民族が混在していた地方である。


ハヴェル大統領が説き、ボルッアーノが目指した平和的共存関係が果たして実際に可能かどうかIそれは国境を越えていくドイツ人たちの民族を超える姿勢、そしてドイツの資本の行動に大きくかかっているだろう。もちろんチェコスロヴァキアの側にも、六〇〇年以上も前のフスの発言以来の民族~義を超える努力が求められるのだろう。難事である。