ドイツが国境を越えている、越えていった様子をいくつかの場所に即して見てきた。国境といっても、ことにヨーロッパ大陸の場合、もともとが必ずしもはっきりした境界がめったわけではない。境界といっても「虹」のようなもので、ひとは虹が七色だというが、七つの色の境目がはっきり見えるわけではあるまい。いろいろな民族が混じり合って生きてきたのは、今まで見てきた東の場合だけではない。たとえば、ドイツとフランスとの間のアルザス・ロレーヌ地方は、ここに国と国の境があるほうが不自然な感じである。例は他にいくらもある。
国民国家の成立で、虹が七色にはっきり区別されているかのように錯覚し、はっきりと塗り分けたのが現代の悲劇を生む原因、の少なくとも一つであったのだろう。アルザスに生まれた父をもち、姓もドイツ風のフランス人、アンドレージークフリートは、「地理的な枠が欠けている」のがドイツの宿命で、そこにすむドイツ民族には「国境から溢れでょうとするたえざる本能」があると指摘する。こうした宿命が生んだ最悪のケースがナチスードイツの武力侵略だったのだろう。
しかし、過去において、「国境から溢れで」ていったドイツ人がいつも武器をもち、暴力を振るってきたわけではない。すでに見たように、望まれて入植し、農業技術、都市建設など西ヨーロッパの先進文明をもってくるというので歓迎されていた面さえある。たとえば、ドイツの東方植民の全体について、ミュンヘンの東ヨーロッパ研究所の所長だったハンスーラウパッハの評価は高い。「東部ミッテルーオイローパを精神的・物質的に決定的に刻印」していたのはドイツ人であって、その「東方運動」は「それまで未利用だった生活圏への平和的浸透」であり、ドイツ人の「東方植民は、唯一とはいわないが。もっとも重要な近代化の担い手だった」というのである。
かつての「東方植民」については、こうした肯定的な評価ばかりではないのは当然である。「重要な近代化の担い手」による支配に対する反発が繰り返されてきたことはすでに触れてきた。民族国家の成立以前にも、民族を単位とする抗争の例にはこと欠かない。ただ、求められて国境を越えていきながら。結果として紛争をまきおこし、悲劇を生んだ、という両面は見ておくべきだろう。「文明化とドイツ化の傾向は、成果をあげるとともに悲劇的な結末も招」き、「ドイツ人は東の近隣諸国に恐怖心と魅力、脅迫と模範の混じり合ったものをもたらした」(ジャックールプユク)のであった。
そのドイツは今また、似たような状況に置かれているように見える。ポーランド、チェコスロヴァキアがドイツからの投資と技術を必要とし、待ち望んでいながら、善隣友好条約ではドイツ人の定住・営業権を認めようとしなかったのは、そういうドイツへのアンビバレントな感情の表れであろう。しかも、「いずれは来ヨーロッパでドイツが支配することになる運命にほとんど諦め顔が見られる」とドイツ人のポーフンド問題専門家は指摘するのである。
このような状況は西側にも波紋を投げかける。フランスの一外交官が一九九二年一月の『ルモンド』紙に寄稿、九一年初めの段階で、チェコスロヴァキアでの合弁事業九五〇件のうち、五四六件にドイツまたはオーストリア資本が参加しているのに、フランスが参加しているのはわずか二三件だけだと苛立たしげに指摘していた。旧西ドイツは旧来ドイツの経済建て直しに手足を縛られているかに見えるが、それでもすでにこれが実情である。
当のドイツでは。アレンスバハ世論調査研究所が一九九二年二月に発表した、政財官界のトップを対象にする世論調査結果によると、今後のドイツが中、長期的には来ヨーロッパに傾斜していくとの見解が多い。「東ヨーロッパでの変革の結果、ドイツは中、長期的により西ヨーロッパに傾斜するか、東ヨーロッパに傾斜するか」という設問に対しては。全体では「西ヨーロッパに傾斜」が一九パーセントに対して「束」が四六パーセントであり、「ドイツ経済の将来は、西ヨーロッパか東ヨーロッパか」には、「東ヨーロッパ」が全体の五五パーセントを占める。ドイツの重心が東寄りになっていくことを示しているが、その結果、対東ヨーロッパ政策についてドイツと他の西ヨーロッパ諸国との間に意見の衝突が起こりうると見る人が三〇パーセントを越えている。