さて、話は現代に戻る。ドイツとの国境に近い西ボヘミアに、チェコ語でタホフ、ドイツ語でタッハウと呼ばれる小さな町がある。映画の舞台にもなったマリーエンバートの町に近い。 人口は一万五〇〇〇人で、うちドイツ人の家族は三〇所帯だけだが、戦争前は圧倒的にドイツ人の多い町だった。一九三〇年の人目は約七〇〇〇人、うちチェコ人は五〇〇人に足りない。ここでも戦後、ドイツ人がほとんど根こそぎにされたあと、チェコの各地、あるいはスロヴァキアなどから人びとが移住させられてきた。
ところが、「ビロード革命」後のここの町長はれっきとしたドイツ系。反ドイツ感情の強いチェコスロヴァキア中でただひとり、しかも戦後初のドイツ系の首長である。ほとんどのドイツ人が追放されたのにこの町長が故郷に残れだのにはわけがある。父がユダヤ系のドイツ人で、強制労働につかされていた。ドイツ系でも、ユダヤ人や反ファシストは残留を許されたから、かれの父もそのなかにはいり、戦後の追放を免れた。母はチェコ人だった。町長の身体には、ちょうどボヘミアそのもののように、ドイツ、チェコ、ユダヤの三つの血が流れている。
ボヘミアの首都プラハとドイツのニュルンベルクを結ぶ要路に沿ったタホフの、かつては貴族の立派な館が今は町役場で、その二階に町長室はある。秘書室らしいところにも人気はなく、町長室もがらんとしている。電話もかかってこない。暇である。がらんとしていて、暇なのは、町の窮状を象徴している。かつてはウラン鉱があり、坑夫がいた。三五〇〇人のチェコスロヴァキア兵が駐屯していた。しかし、ウラン鉱は閉鎖され、ドイツへの軍事的警戒をしなくてもよくなって、兵隊も去った。
今、町にいるのは失業者である。町役場が森閑としているのも無理はない。運よくドイツで仕事をみつけた人びとは国境を越えて出稼ぎにいく。ドイツ人としては少ない月給も、町で働く場合の一年分になるのだそうである。となれば良質の労働力の流失は避けられない。町にとってはこれが辛い。「自助への援助」を口癖のように繰り返す町長は、「ドイツからの資本進出にすがるような気持ちだ」という。そして、ECがて二力国の金持ちクラブにおわっては困る、と繰り返し、ヨーロッパ復興開発銀行への期待を語るのだった。町長の友人のジャーナリストがドイツ語とチェコ語の二カ国語の新聞をだしている。これは国境の向こうのドイツの町との協力でできている新聞である。この地方での地域経済協力の一つの形でもある。
ここでの地域経済協力について語るために、もうひとつ別の、チェコ語でヘブ、ドイツ語ではエーガーの町へ足をのばそう。ドイツとの国境沿いの、かつてぱチェコでプラハに次いで車要な町だったというが、今は静か、というより活気を欠く。国境を越えて、安い日常品の買物にきているドイツ人だちの大声のドイツ語がやたら耳に入る。一九九一年初冬、「町の名所」であるはずのシラー博物館はしまっていた。暖房費がなくて開けていられないのだという。これがあるのは、三十年戦争の立役者、カトリックの神聖ローマ帝国皇帝軍の総司令官ヴァレンシュタインが暗殺されたこの町で、ドイツの文豪シラーが戯曲『ヴァレンシュタイン』を書いたからである。
博物館の前の、荒涼とした広場を昔の写真と比べると奇妙なことに気づく。以前は広場の中心にあったシラー像がなく、台座の基礎らしきものだけが残っている。共産党政権下での反ドイツ政策の傷痕である。ゲーテとボヘミアとの縁も深い。ゲーテはボヘミアを一七回訪れ、マリーエンバート、カールスバートの温泉地に滞在している。ドイツではなかったが、ドイツとは切っても切り離せないのがボヘミアなのである。そのドイツの痕跡をこそぎ落とそうとする政策が戦後続いてきたのだった。