工具マニアで困ってます -16ページ目

工具マニアで困ってます

営業職なのに工具大好きで、営業中にホームセンターに入り浸り・・・

さて、話は現代に戻る。ドイツとの国境に近い西ボヘミアに、チェコ語でタホフ、ドイツ語でタッハウと呼ばれる小さな町がある。映画の舞台にもなったマリーエンバートの町に近い。 人口は一万五〇〇〇人で、うちドイツ人の家族は三〇所帯だけだが、戦争前は圧倒的にドイツ人の多い町だった。一九三〇年の人目は約七〇〇〇人、うちチェコ人は五〇〇人に足りない。ここでも戦後、ドイツ人がほとんど根こそぎにされたあと、チェコの各地、あるいはスロヴァキアなどから人びとが移住させられてきた。


ところが、「ビロード革命」後のここの町長はれっきとしたドイツ系。反ドイツ感情の強いチェコスロヴァキア中でただひとり、しかも戦後初のドイツ系の首長である。ほとんどのドイツ人が追放されたのにこの町長が故郷に残れだのにはわけがある。父がユダヤ系のドイツ人で、強制労働につかされていた。ドイツ系でも、ユダヤ人や反ファシストは残留を許されたから、かれの父もそのなかにはいり、戦後の追放を免れた。母はチェコ人だった。町長の身体には、ちょうどボヘミアそのもののように、ドイツ、チェコ、ユダヤの三つの血が流れている。


ボヘミアの首都プラハとドイツのニュルンベルクを結ぶ要路に沿ったタホフの、かつては貴族の立派な館が今は町役場で、その二階に町長室はある。秘書室らしいところにも人気はなく、町長室もがらんとしている。電話もかかってこない。暇である。がらんとしていて、暇なのは、町の窮状を象徴している。かつてはウラン鉱があり、坑夫がいた。三五〇〇人のチェコスロヴァキア兵が駐屯していた。しかし、ウラン鉱は閉鎖され、ドイツへの軍事的警戒をしなくてもよくなって、兵隊も去った。


今、町にいるのは失業者である。町役場が森閑としているのも無理はない。運よくドイツで仕事をみつけた人びとは国境を越えて出稼ぎにいく。ドイツ人としては少ない月給も、町で働く場合の一年分になるのだそうである。となれば良質の労働力の流失は避けられない。町にとってはこれが辛い。「自助への援助」を口癖のように繰り返す町長は、「ドイツからの資本進出にすがるような気持ちだ」という。そして、ECがて二力国の金持ちクラブにおわっては困る、と繰り返し、ヨーロッパ復興開発銀行への期待を語るのだった。町長の友人のジャーナリストがドイツ語とチェコ語の二カ国語の新聞をだしている。これは国境の向こうのドイツの町との協力でできている新聞である。この地方での地域経済協力の一つの形でもある。


ここでの地域経済協力について語るために、もうひとつ別の、チェコ語でヘブ、ドイツ語ではエーガーの町へ足をのばそう。ドイツとの国境沿いの、かつてぱチェコでプラハに次いで車要な町だったというが、今は静か、というより活気を欠く。国境を越えて、安い日常品の買物にきているドイツ人だちの大声のドイツ語がやたら耳に入る。一九九一年初冬、「町の名所」であるはずのシラー博物館はしまっていた。暖房費がなくて開けていられないのだという。これがあるのは、三十年戦争の立役者、カトリックの神聖ローマ帝国皇帝軍の総司令官ヴァレンシュタインが暗殺されたこの町で、ドイツの文豪シラーが戯曲『ヴァレンシュタイン』を書いたからである。


博物館の前の、荒涼とした広場を昔の写真と比べると奇妙なことに気づく。以前は広場の中心にあったシラー像がなく、台座の基礎らしきものだけが残っている。共産党政権下での反ドイツ政策の傷痕である。ゲーテとボヘミアとの縁も深い。ゲーテはボヘミアを一七回訪れ、マリーエンバート、カールスバートの温泉地に滞在している。ドイツではなかったが、ドイツとは切っても切り離せないのがボヘミアなのである。そのドイツの痕跡をこそぎ落とそうとする政策が戦後続いてきたのだった。

一五二六年、ボヘミアの王位にハプスブルク家のフェルディナントが就いたことは、この地のゲルマン化にとって決定的な意味をもった。神聖ローマ帝国皇帝、ハンガリー王も兼ねるフェルディナントは、ボヘミアを再びカトリック化するため、イエズス仝を招き入れ、プラハの大司教管区を再建する。これと並行して、農村人口の激減していたボヘミアにはまたもやドイツ人が大挙して押し寄せてくる。


チェユ語が唯一の公用語とのとりきめのはずだったが、フェルディナントも、神聖ローマ帝国とハンガリー、ボヘミア両王国、計三つの冠を相続したその子も、孫のルードルフ二世もドイツ語を用い、プラハの宮廷、役所ではドイツ語かイタリア語が話されていて、チェコ語はしだいに駆逐されていく。ボヘミアの住民はスラヴ系一〇に対してドイツ人一の割合だったというが、ルードルフニ世がプラハを皇帝の居性地としたことが「チェコ人にとっては致命的な、ドイツ人にとってはつごうのよい事実の合邦を意味」していた。


しだいに力を増していくドイツ人について、当時のチェコの歴史家の「見放」にはこんなことが書いてある(ジャークーアンセルから引用)キャベツについた毛虫のごとく、胸にはいあかっか蛇のごとく、納屋や穀物倉のねずみのごとく、庭の山羊のごとくに、チェックの社会にはいりこんだドイツ人たちはおおっぴらに盗み、取り、だまし、かたり、はぎとってはばからない。


こうして、ドイツ系のカトリックの住民とチェコのプロテスタントの住民との緊張が高まり、ついに一六一八年、プロテスタントの領主たちは、二人の代官をフラッチャー城の窓から放り出すフス戦争のきっかけとなった一四一九年の「窓外投げ出し事件」にならったのである。一人が軽い怪我をしただけですんだが、二回目のこの「窓外投げ出し事件」が三十年戦争の発端となった(ボヘミアの歴史では、重要な「窓外投げ出し令件」がある。一九四八年、共産党政権が発足した直後、初代大統領の息子で外務大臣だった、サリクが執務室の窓から墜落死した不自然な収件である。いまだに当時の状況はまったく不明瞭なままである。


この結果は、「こんなに短い戦闘から、これほど重人な結果が生じたことも、まことに珍しい」といわれる事態になる。というのは、カトリックが貼び国教になり、ルター派など三万家族、T五万人のチェコ人は追放ないしは亡命、そうして没収された財産はドイツ人の傭兵隊長たちに分配されて新貴族が誕生したからである。プロテスタントのチェコ人貴族、都市民たちは壊滅してしまう。


追放といい、財産没収といい、第二次大戦後のドイツ人の社命を思わせる。三十年戦争でボヘミアの人目は少なくとも丘分の」は減り、減ったあとのボヘミア北、西部にはまたドイツ人が入ってきた。ドイツ人が多く住みついたところはボヘミアのほぼ四分の一におよび、その状態は基本的に第二次人戦の終わる一丸四五年までつづく。社会のドイツ化、ゲルマン化が進み、ドイツ諧が公用語、チェコ語はしだいにダメになった。


十世紀にマジャールの支配下におかれたスロヴァキアについで、ボヘミアも十七世紀のこの時からゲルマンが支配することになったのである。こうしてボヘミアは、一九一八年までつづく、ほぼ三〇〇年の長い眠りにはいった。フス戦争、白山の敗戦のときに蒔かれていた種、これが芽を出しだのが前述の十九世紀のチェコ民族主義のルネサンスだったのである。

そんな中で宗教改革者フスが登場する。プラハ大学の総長も務めたかれが聖書をチェコ語に訳し、免罪符に反対して、火あぶりの刑になったのが一四T五年。ドイツ人ルターが「われわれが奉じる福音はフス……、か血をもってあがなったものである」と賞賛し、聖書をドイツ語に訳し、免罪符に反対したのはほぼI〇〇年後のことだが、フスはそのドイツ人にたいする激しい反感を民衆に語る。フス運動は反ゲルマンの民族運動でもあった。かれの処刑は、チェコ人も加わったポーランドーリトアユア合同軍がドイツ騎士団を壊滅させたタンネンベルクの戦いから五年後のことだった。


フスはチェコ人をはげしく反ゲルマン、反ドイツにかき立てるかずかずの言葉を残している。たとえば、犬は自分が寝る寝わらを守り、そこからかれを追い立てようとするものに対しては相手を問わずかみつく。しかるにチェコ人はドイツ人がその王国を略奪しにかかっても逆らおうともしない。つまり、ほえたてることも、かみつくこともできない無能な犬に等しい。


もしチェコ人がドイツ人をめとったならば、生まれた子供にはまずチェコ語を覚えさせ、一時に二国語を学ばさせることぱ避けよ。なぜならば言語の二重性はそれ自体そねみ、いさかい、いらだち、仲たがいを表すから。これらの主張の是非は問うまい。ただ、当時のチェコの人びとの民族感情がこうだとすれば、フスの処刑がチェコ民族にたいする侮辱だと受け取られたことは十分に理解できるだろう。処刑から四年後の一四一九年、かれを支持する民衆は熱狂してプラハの市役所に押しかけ、カトリックの市長たちを窓から放り出し、一〇人の議員を虐殺する。第一回の「窓外投げ出し事件」である。この衝撃でボヘミア王は立腹のあまり卒中をおこして死んでしまう。


神聖ローマ帝国皇帝でもあった弟のハンガリー王ジギスムントが、ボヘミア王も兼ねることになり、法王庁はフス派の民衆にたいして十字軍を差し向ける。しかし、フス派はこのボヘミア王を認めず、鎌、槍で武装して十字軍を粉砕、国内のドイツ人とカトリック教会の勢力を追い出してしまう。「神の戦士である者ら」という軍歌を歌いながら戦うフス派の民衆は、「まず何よりも、自分の民族を守るのだ、という堅い信念で自らを武装して」ドイツ各地を駆け回り、城や修道院を破壊、ついにはI〇万のドイツ軍を戦わずして退却させるまでに強力になって、法王庁、ジギスムントとの交渉に入る。


王は王室と聖職者の財産の喪失を認め、チェコ語を唯一の公用語とし、公務から外国人、つまりドイツ人を排除することなどチェコ側の民族主義的要求を容認して、一四三六年ようやく「フス戦争」は終わる。その直後、ジギスムントは死に、しばらくの混乱のあと、民衆の側が「チェコ人の血と言葉と心情」をもっだフス団の長老を王に選出した二四五八年)とき、民族の自尊心、献身に支えられたフス運動は絶頂に達した。しかし、ほどなく王位はカトリックのポーランドの王朝に移ってしまう。