「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -93ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

教義と聖約38:1

主なるあなたがたの神は、このように言う。すなわち、イエス・キリスト、わたしは有るという大いなる者、アルパでありオメガであり、初めであり終わりであり、世界が造られる前に永遠の大いなる広がりと天のすべてのこうごうしい衆群を見た者、

 

「光と真理の窓」(英文)1995年10月、ジョセフ・B・ワースリン、十二使徒定員会

わたしは、天の窓が確かに開かれていることを証します。ヒンクレー大管長は、主から召された現代の生ける預言者です。ジョセフ・スミスは回復の預言者です。イエスはキリストであり、全人類の主であり、救い主です。天の御父は確かに生きておられ、子供たち一人一人を愛しておいでになります。主は、永遠の真理のネットワークを回復なさいました。わたしたちもそれぞれの天の窓を開くことができます。この神聖な窓を開いて、「永遠の大いなる広がり」教義と聖約38:1、「世々限りない」教義と聖約76:112無限の宇宙を主とともに見詰めることができるのです。この証をイエス・キリストの御名によって申し上げます。アーメン。

 

 

 

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2025年版(BOX)

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

教義と聖約37:4

見よ、ここに知恵がある。わたしが来るまで、各人に自ら選ばせなさい。まことにそのとおりである。アーメン。

 

「これは奇跡です」2013年4月、ニール・L・アンダーセン、十二使徒定員会

救い主は福音を分かち合う方法を教えてくださいました。わたしはアンデレの話が好きです。彼はこう尋ねました。「先生……どこにおとまりなのですか。」ヨハネ1:38イエスは住んでいる場所を告げずに,アンデレに言われました。「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう。」ヨハネ1:39 救い主はこう言おうとされたのだと思います。「来て,わたしが住んでいる場所だけでなく,わたしの生き方も見なさい。来て,わたしがどのような者かを見なさい。来て,御霊を感じなさい」と。その日のことのすべては分かりませんが,アンデレが兄弟のシモンを見つけたときにこう述べたことは分かっています。「わたしたちは〔に〕出会った。」ヨハネ1:41

 

わたしたちの会話に関心を示す人々を,わたしたちは救い主の模範に従って,「来て,見てください」と招くことができます。招きを受け入れる人もいれば,受け入れない人もいます。わたしたちは皆,「来て,見てください」と何度か招かれた結果,それを受け入れたという人を知っています。かつてわたしたちと一緒にいた人で,今はまれにしか会わない人についても考え,戻って来てもう一度会うように誘いましょう。

 

わたしたちは各人の選びと時機を尊重します。主は,「各人に自ら選ばせなさい」教義と聖約37:4と言われました。関心を示さないからといって,友情や愛のきずなを弱くする必要はありません。「来て,見てください」と招くときにその招きが受け入れられても受け入れられなくても,皆さんは,主の承認を感じ,またその承認を得て何度も信条を分かち合うためのさらなる信仰を感じることでしょう。

 

 

 

Come follow me by Jorge Cocco Santangelo

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2025年版(BOX)

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

教義と聖約37:2

さらにまた、わたしはあなたがたに言う。あなたがたはこの地方でわたしの福音を宣べ伝えるまで、そして教会のあるすべての所で、特にコールズビルで教会を強くするまで、出かけてはならない。見よ、彼らが深い信仰をもってわたしに祈っているからである。

 

「祈りがもたらす穏やかな力」2003年4月、ラッセル・M・ネルソン、十二使徒定員会

イエスは祈る方法を教えてくださいました。(贖罪を成し遂げる際,主はゲツセマネにおいても(ルカ22:39-44参照),カルバリの十字架上でも(ルカ23:33-34,46参照),祈りを通して御父と交わり続けられた。)祈りは天の御父に対して,マタイ6:9;ジョセフ・スミス訳マタイ6:10〔英文〕;ルカ11:23ニーファイ13:9参照)イエス・キリストの御名を通して,モルモン書ヤコブ4:4-53ニーファイ20:3127:9モーセ5:8参照)聖霊の力モロナイ6:910:4-5参照)によってささげます。これこそ「正しい祈りの方式」(ブルース・R・マッコンキー,A New Witness for the Articles of Faith(1985年),380)です。「くどくどと祈〔ったり〕」,(マタイ6:7暗唱したりして「人に見せようと」マタイ6:5する祈りとは対照的です。

 

イエスは,わたしたちが祈りをささげる賢明な御父は,求めない先から必要なものを御存じであることを明らかにされました。マタイ6:8参照)

 

モルモンが息子のモロナイに教えたところによれば,わたしたちは「熱意を込めて」モロナイ7:48祈らなければなりません。ニーファイはこう述べています。「わたしは昼は絶えず民のために祈り,夜は……涙で枕をぬらしている。そしてわたしは,信仰をもって神に叫び求めている。わたしは,神がわたしの嘆願を聞き届けてくださることを知っている。」2ニーファイ33:3モルモン書ヤコブ3:1アルマ31:38教義と聖約37:2も参照)

 

祈りがもたらす穏やかな力は,特別な必要があるとき,断食によっていっそう確かなものになります。マタイ17:21マルコ9:291コリント7:5モーサヤ27:22-23アルマ5:463ニーファイ27:1教義と聖約88:76参照)

 

祈りは声を出さずにささげることもできます。心の中で祈ることができます。特に,言葉が考えの妨げとなってしまうときはそうです。(ある賛美歌には次のように詳しく書かれています。「祈りは魂の見えぬ望み,述めべても述べずも,……仰ぎ見る眼には,神は近し」(「賛美歌』83番))祈るときにはしばしばひざまずきますが,立っていても座っていてもかまいません。(その場の状況によりふさわしい姿勢を選ぶ。)体の姿勢よりも,霊的に神に服従することの方が重要なのです。

 

祈りを終えるときには,「イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン」と言います。(そのほかの有益な教えとして,ダリン・H・オークス「祈りの言葉」『聖徒の道』1993年7月号,15-18参照)ほかの人が祈るのを聞いているときには,「わたしもそのようにお祈りします」という意味で,声に出して「アーメン」と言います。(The American Heritage Dictionary of the English Language. 第4版(2000年),57参照。「アーメン……祈りや声明の終わりに使われ,同意または承認を表す言葉。〔中期英語,古期英語に由来,後期ラテン語Amenに由来,ギリシャ語に由来,ヘブライ語Amenに由来,確かに,まことに,”amen”,確固としている。〕」)

 

 

 

 

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2025年版(BOX)