今週の「わたしに従ってきなさい」
教義と聖約37:2
さらにまた、わたしはあなたがたに言う。あなたがたはこの地方でわたしの福音を宣べ伝えるまで、そして教会のあるすべての所で、特にコールズビルで教会を強くするまで、出かけてはならない。見よ、彼らが深い信仰をもってわたしに祈っているからである。
「祈りがもたらす穏やかな力」2003年4月、ラッセル・M・ネルソン、十二使徒定員会
イエスは祈る方法を教えてくださいました。(贖罪を成し遂げる際,主はゲツセマネにおいても(ルカ22:39-44 参照),カルバリの十字架上でも(ルカ23:33-34,46 参照),祈りを通して御父と交わり続けられた。) 祈りは天の御父に対して,(マタイ6:9 ;ジョセフ・スミス訳マタイ6:10〔英文〕;ルカ11:2 ;3ニーファイ13:9 参照) イエス・キリストの御名を通して,(モルモン書ヤコブ4:4-5 ;3ニーファイ20:31 ;27:9 ;モーセ5:8 参照) 聖霊の力(モロナイ6:9 ;10:4-5 参照) によってささげます。これこそ「正しい祈りの方式」(ブルース・R・マッコンキー,A New Witness for the Articles of Faith(1985年),380)です。「くどくどと祈〔ったり〕」,(マタイ6:7 ) 暗唱したりして「人に見せようと」(マタイ6:5 ) する祈りとは対照的です。
イエスは,わたしたちが祈りをささげる賢明な御父は,求めない先から必要なものを御存じであることを明らかにされました。(マタイ6:8 参照)
モルモンが息子のモロナイに教えたところによれば,わたしたちは「熱意を込めて」(モロナイ7:48 ) 祈らなければなりません。ニーファイはこう述べています。「わたしは昼は絶えず民のために祈り,夜は……涙で枕をぬらしている。そしてわたしは,信仰をもって神に叫び求めている。わたしは,神がわたしの嘆願を聞き届けてくださることを知っている。」(2ニーファイ33:3 。モルモン書ヤコブ3:1 ;アルマ31:38 ;教義と聖約37:2 も参照)
祈りがもたらす穏やかな力は,特別な必要があるとき,断食によっていっそう確かなものになります。(マタイ17:21 ;マルコ9:29 ;1コリント7:5 ;モーサヤ27:22-23 ;アルマ5:46 ;3ニーファイ27:1 ;教義と聖約88:76 参照)
祈りは声を出さずにささげることもできます。心の中で祈ることができます。特に,言葉が考えの妨げとなってしまうときはそうです。(ある賛美歌には次のように詳しく書かれています。「祈りは魂の見えぬ望み,述めべても述べずも,……仰ぎ見る眼には,神は近し」(「賛美歌』83番 )) 祈るときにはしばしばひざまずきますが,立っていても座っていてもかまいません。(その場の状況によりふさわしい姿勢を選ぶ。) 体の姿勢よりも,霊的に神に服従することの方が重要なのです。
祈りを終えるときには,「イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン」と言います。(そのほかの有益な教えとして,ダリン・H・オークス「祈りの言葉」『聖徒の道』1993年7月号,15-18参照) ほかの人が祈るのを聞いているときには,「わたしもそのようにお祈りします」という意味で,声に出して「アーメン」と言います。(The American Heritage Dictionary of the English Language. 第4版(2000年),57参照。「アーメン……祈りや声明の終わりに使われ,同意または承認を表す言葉。〔中期英語,古期英語に由来,後期ラテン語Amenに由来,ギリシャ語に由来,ヘブライ語Amenに由来,確かに,まことに,”amen”,確固としている。〕」)
聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2025年版(BOX)