その日、戦争と戦争のうわさが聞かれ、全地が混乱し、人々は気落ちするであろう。また、人々は、世の終わりまでキリストは来臨を延ばされると言うであろう。
しかし、わたしの弟子たちは聖なる場所に立ち、動かされない。しかし、悪人の中では、人々が声を上げ、神をのろって死ぬであろう。
「主はかしこに在す」(英文)1987年10月、ニール・A・マックスウェル、十二使徒定員会
イエスが約束してくださった平安は、不安な状態の中で得られる特別な平安です。激動の中にあっても、主の弟子たちは確固として立つことができるのです(教義と聖約45:26, 32参照)。弟子たちは末日にあっても主が「かしこに在す」ことを知っています。(教義と聖約136:22)
私たちは自分の思い煩いをいっさい神にゆだねることができます。それは、ゲッセマネとカルバリの苦痛に満ちた出来事を通して、贖い主イエスは私たちの罪や病気、悲しみをすでによく理解されているからです(1ペテロ5:7;2ニーファイ9:21;アルマ7:11–12参照)。主は今、私たちの罪の重荷を担うことができます。それは、ゲッセマネとカルバリですでに担ったことのある重荷なのですから。
そうです。神の創造の業は万物に及びます。そして、主の贖いのために「伸べた腕」も万物に及ぶのです(出エジプト6:6;詩篇136:6参照)。
常に「かしこに在す」方は、その業においても完全です。それだけではありません。「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のです(1コリント2:9;イザヤ64:4参照)。


