「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -434ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ13:1-23

その日、イエスは家を出て、海べにすわっておられた。 ところが、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわられ、群衆はみな岸に立っていた。 イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。 まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。 ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、 日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。 ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。 耳のある者は聞くがよい」。 
それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。 そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。 だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。 こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。
 『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。

  見るには見るが、決して認めない。 
  この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。

  それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、

  悔い改めていやされることがないためである』。 
しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。 あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。 そこで、種まきの譬を聞きなさい。 だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。 石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。 その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。 また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。 また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。

 

 

「早すぎることも遅すぎることも決してありません」2015年10月、ブラッドリー・D・フォスター長老、七十人

このとき,イエスは種をまくことに関する話,つまり種まきのたとえを話されました。 このたとえを説明する中で,主は弟子たちに,ひいてはわたしたちにこう言っておられます。「だれでも御国の言を聞いて悟らないならば,悪い者がきて,その人の心にまかれたものを奪いとって行く。」 これは親に向けた明瞭なメッセージです。聞くことと理解することは違います。もし子供が福音をただ聞くだけで理解しないなら,やがてはサタンにこの真理を子供の心から奪い取る隙を与えてしまうことになるのです。

 

しかし,子供の心に改心が深く根付くように助けることができるなら,日が上って暑いさなかに,すなわち必ず訪れる人生の苦難に遭うとき,イエス・キリストの福音が彼らの心の内に,外部の影響を物ともしない何かを与えてくれるでしょう。この力強い真理が彼らの心に根付かないままに片方の耳からもう片方へと抜けることのないようにするには,どうしたらよいでしょうか。言葉を聞くだけでは十分ではないかもしれないのです。

(わたしが)ブリガム・ヤング大学アイダホ校で独身成人ステークの会長として奉仕していたときのことです。そのときの経験がわたしの人生を変えました。ある火曜日の晩,メキシコシティー出身のパブロという若い男性と面接しました。彼は伝道に出たいと望んでいました。わたしは,彼の証と奉仕に対する望みについて尋ねました。質問に対する彼の答えは完璧でした。次に,ふさわしさについて尋ねました。答えは的確なものでした。実際,あまりにも立派な答えなので,「もしかしたら質問の意味を理解していないのでは」といぶかしく思いました。そこで,質問を分かりやすく言い直したところ,彼が質問の意図を正確に理解しており,まったく正直に答えているという確信を得ました。

 

わたしはこの若者に深く感銘を受け,こう尋ねました。「パブロ,君が今日までこのように主の御前をまっすぐに歩んでこられたのは,誰のおかげですか。」

 

彼は答えました。「父のおかげです。」

 

わたしは言いました。「パブロ,その話を聞かせてください。」

 

パブロは次のように続けました。「9歳のとき,父はわたしを傍らに引き寄せてこう言いました。『パブロ,わたしにも9歳の時があった。これからおまえが出くわすかもしれないことについて話そう。学校でカンニングする人を見かけるかもしれない。周りの誰もが悪態をつくかもしれない。またおそらく,教会に行きたくない日が来るだろう。そこでだ,そういうことが起きたり,他にも何か困ったことがあったりしたら,わたしのところへ話しに来ておくれ。うまく切り抜けられるよう助けてあげるよ。そして,次に起こることを話してあげよう。』」

 

「それでパブロ,10歳のときには,お父さんは何と言いましたか。」

 

「ポルノグラフィーと口汚い冗談について警告してくれました。」

 

「11歳のときにはどうでしたか」とわたしは尋ねました。

 

「依存性のあるものに手を出さないよう忠告し,選択の自由を使うことを思い起こさせてくれました。」

 

こうして父親は年々,「規則に規則。ここにも少し,そこにも少し」(イザヤ28:10) と教え, 息子が聞くだけではなく理解するように助けました。子供が学ぶのは,親に教える備えができたときだけでなく,子供自身が学ぶ備えができたときであることを,パブロの父親は知っていたのです。その晩パブロの伝道申請書を提出したとき,わたしはパブロを誇りに思いました。けれども,パブロの父親を一層誇りに思いました。

 

その夜,わたしは車を運転して家に帰る途中,こう自問しました。「パブロはどんな父親になるだろうか。」答えは非常に明白でした。彼はまさに父親のようになるでしょう。イエスはこう言われました。「子は父のなさることを見てする以外に,自分からは何事もすることができない。」(ヨハネ5:19) これこそ天の御父がどのようにして代々にわたりその子供たちを祝福されるかを示す規範です。

 

わたしはパブロとの経験についてずっと考えているうちに,悲しくなりました。4人の娘は成長し,当時いた9人の孫も近くに住んでいなかったからです。そのとき,こう考えました。「果たして自分は,パブロの父親がパブロを助けたように子供を助けてきただろうか。もう遅すぎるだろうか。」心の中で祈っていると,御霊が次のような深遠な真理をささやきました。「この大切なプロセスを始めるのに,早すぎることも遅すぎることも決してありません。」それがどういう意味かすぐに分かりました。家に帰り着くのが待ち切れない思いでした。妻のシャロルに頼んで,子供たち全員に電話をかけ,わたしたちが会いに行く必要があると伝えてもらいました。彼らに伝えるべき実に大切なことがあったからです。…

 

 

今週の「わたしに従って来なさい」

 

 

1コリント2:9-11

しかし、聖書に書いてあるとおり、

「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、

 人の心に思い浮びもしなかったことを、

 神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」

のである。そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。 いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。

 

 

「ローズおばさんと過ごした夏」2015年10月、ディーター・F・ウークトドルフ管長、大管長会

ローズおばさんは, うなずきました。「人生で望んでいたことがたくさんあったわ。… そのほとんどは決して実現しなかった。がっかりすることが何度も起きて,ある日,分かったの。人生は決して願いどおりにはならないって。本当に暗い気持ちになったわ。諦めて,打ちひしがれてしまいそうにもなったのよ。」


「それで,どうしたの?」エバは尋ねました。
 

「しばらくは何もしなかったわ。ただ怒りが込み上げてきて,周囲に当たり散らしていたの。…『不公平だ』という言葉を頭の中で何度も繰り返したわ。でもとうとう,わたしの人生を大きく変えるものを見つけたのよ。」


「何を見つけたの?」
 

「信仰よ」と言ってローズおばさんはほほえみました。「信仰を見つけると,信仰から希望が生まれたの。そして信仰と希望の力で,きっといつの日か全てが明らかになって,救い主のおかげで全ての間違いが正されると確信できたの。それからは,自分が進む道は思ったほど暗く苦しいものではないと分かったわ。明るい青空や緑の草木,燃えるような赤い花などに気づくようになってね。自分の道は自分で選ぶと心に決めたの。悲しみに沈んで,自分を憐れみながら足をひきずって進むのか,それとも少し信仰を持って,明るいドレスを着て,ダンスシューズをはいて,歌いながら人生の道を軽快に進むのか。」
 

ローズおばさんはサイドテーブルへ手を延ばすと,使い古した聖典を膝の上に乗せました。「…しばらくは暗い日々だったわ。でも,悲しんだり心配したりしていても,何も変わらないし,ますます悪くなるだけ。救い主への信仰を持つことによって,過去にどんなことがあったにせよ,最終的には幸せになれると教えられたの。」
 

「どうやってそれが分かったの?」
 

ローズは聖書のある1ページを開いて言いました。「ここに書いてあるわ。
『神が人と共に住み,人は神の民となり,神自ら人と共にいまして,
人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや,死もなく,悲しみも,叫びも,痛みもない。先のものが,すでに過ぎ去ったからである。』」(ヨハネの黙示録21:3-4
 

ローズおばさんはエバの顔を見て,にっこり笑いました。そして,声を震わせながら,こうささやきました。「こんなすばらしいこと,聞いたことがある?」
 

本当にすばらしいことだとエバは思いました。
 

ローズおばさんは数ページめくり,一つの聖句を指して,エバに読ませました。

 

「『目がまだ見ず,耳がまだ聞かず,人の心に思い浮びもしなかったことを,神は,ご自分を愛する者たちのために備えられた』。」(1コリント2:9
 

ローズおばさんは言いました。「そのようにすばらしい将来が待っているなら,自分の計画どおりにならなかった過去や現在の悲しみに沈み込んでしまうなんてことがあっていいかしら?」

 

 


今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ヨハネ13:1-15

過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。 夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、 イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、 それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。 こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。 イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。 ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。 シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。 イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。 イエスは自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みんながきれいなのではない」と言われたのである。 こうして彼らの足を洗ってから、上着をつけ、ふたたび席にもどって、彼らに言われた、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。 あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。 しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。 

 

 

「彼らを最後まで愛し通された」(英語)1989年10月、ジェフリー・R・ホランド、七十人定員会

最後の過越の祭の聖なる晩餐を準備していたとき, イエスの心は引き裂かれんばかりの思いに満ちていました。主だけが目前に待ち受けている出来事を知っていましが、聖典に「『人の子』は一切これらのものの下に身を落としたり」(教義と聖約122:8)と記されたときまでおそらく, 主ご自身でさえもこれから受けなければならない苦しみの深さを, 完全には予期していなかったと思われます。このような思いを抱きながら晩餐をとるさなか, キリストは静かに立ち上がり, 奴隷あるいは召し使いのように仕度を整え, 弟子たちの足を洗うためにひざまずきました。(ヨハネ13:3-17参照) この地上に設立されて間もない神の王国に属する小さな信徒の一団は, 最も過酷な試しを受けようとしていました。そこで, キリストはご自分の強まる苦痛にもかかわらず, なお再び弟子たちに仕え、彼らを力づけたのです。だれひとりとして主の足を洗おうとしなかったことは問題ではありません。イエスは比類のない謙遜さをもって弟子たちを教え, 清め続けました。この世の生涯を閉じる寸前, さらにその後までも弟子たちを支える僕として仕えたのです。その場に居合わせ, この奇しき出来事のすべてを目の当たりにしたヨハネは,次のように記しています。「イエスは … 世にいる自分の者たちを愛して, 彼らを最後まで愛し通された。」(ヨハネ13:1)