「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -429ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ルカ2:13
するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った

 

 

「御国が来ますように」2015年4月、ニール・L・アンダーセン、十二使徒定員会

主の栄光に満ちた再臨の日を待ち望むとき,わたしたちの信仰は増します。主が来られることを思うとわたしの心は高鳴ります。きっと息をのむすばらしさでしょう!その規模の大きさと雄大さ,広大さ,壮麗さは,これまで誰も見たことも,経験したこともないほどでしょう。

その日,主は布に包まれて飼葉おけに寝かせられた状態(ルカ2:12)ではなく,「天の雲の中に,力と大いなる栄光とをまとって,すべての聖なる天使たちとともに」来られるのです。(教義と聖約45:44)「天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響く」(1テサロニケ4:16) のが聞こえ,太陽と月は光を与えず,「もろもろの星はその場所から投げ落とされる」(教義と聖約133:49) でしょう。皆さんやわたし,あるいはわたしたちの後に続く「聖徒たちは地の四方から出て来」(教義と聖約45:46)て,「身を変えられて,主に会うために引き上げられ〔ます〕。」(教義と聖約88:96) 義のうちに亡くなった人々もまた,「天の……ただ中で主に会うために引き上げられる」(教義と聖約88:97) のです。

それから想像を絶するようなことを経験します。主は,「すべての肉なるものがともにわたしを見る」(教義と聖約101:23)と言われました。どのように起きるのでしょうか。わたしたちには分かりません。しかし,わたしは預言されたとおりに起きると証します。わたしたちは敬虔にひざまずくことでしょう。「また,主は声を発し,地の果てに至るすべての者がそれを聞く。」(教義と聖約45:49) 「それは大水のとどろきのような,また激しい雷鳴のような声であ〔る〕。」(教義と聖約133:22) 「〔それから〕,主すなわち救い主が,その民のただ中に立〔たれる〕」(教義と聖約133:25) のです。

それから,天の使いと地上の聖徒たちが感動的な再会を果たします。(モーセ7:63参照) しかし,イザヤは何よりも大切なことをこう宣言しています。「地のすべての果は,われわれの神の救を見」(イザヤ52:10) て,主は「すべての肉なるものを治める」(教義と聖約133:25)と。

 

 

 

今週の「わたしに従って来なさい」

 

 

ルカ2:42,46-47

イエスが十二歳になった時も、慣例に従って祭のために上京した。

そして三日の後に、イエスが宮の中で教師たちのまん中にすわって、彼らの話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。 聞く人々はみな、イエスの賢さやその答に驚嘆していた。

 

 

「わたしの心はこれらを絶えず深く考えている」2015年10月、デビン・G・デュラント、中央日曜学校会長会
イエス・キリストは幼い頃から聖文に対する愛を育まれたに違いありません。12歳のときに神殿で賢い教師たちと有意義な話し合いをするために,子供時代から聖文を読み,深く考えてこられたに違いないのです。ルカ2:42,46-47 イエスは30歳のときに宣教を始められ,(ルカ3:23  最初の頃から,また教導の業の間中,何度も聖文に言及されました。マタイ4:3-4 イエスは宣教の準備の一環として,少なくとも20年の歳月を掛けて,聖文を研究し深くお考えになったと言ってもいいのではないでしょうか。皆さんは,家族や他の人々を教えて祝福する将来の機会に向けて霊的な備えをするために,今日,何かする必要があるのではないでしょうか。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ルカ2:14

「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」


「主の強さの中に」(英文)1973年4月、マービン・J・アシュトン、十二使徒定員会

自分に「取るに足らない人間」というレッテルを貼るのと同じくらいに、人間は他人を「取るに足らない人間」に分類してしまう傾向がある。時々、人類は見知らぬ人や未知の人を取るに足らない人間と認定しがちです。これはしばしば自己都合で行われ,耳を傾けようとしません。今日、数え切れないほどの人々がジョセフ・スミスとそのメッセージを拒絶しています。それは14歳の「取るに足らない人間」を受け入れないからです。また,19歳の長老や21歳の女性宣教師,あるいは近所の人が「取るに足らない人間」だからという理由で,今日得られる永遠の回復された真理から目をそらしている人もいます。

救い主イエス・キリストが拒絶され、十字架につけられた理由の一つは、世の人々の目には、飼い葉桶に貧しく生まれ、「地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」(ルカ2:14参照) といった奇妙な教義を主張する「取るに足らない」者として盲目に見られていたからであることに疑いの余地はありません。

謙虚な祈りに答えて神が御子イエス・キリストとともに現れ、ジョセフに語りかけ、彼の名を呼んだとき、ジョセフ・スミスは自分が「何者」であることを地上の衝撃をもって知ったことを、私はあなたと世界の人々に証します。神は何世紀にもわたって,世間で「取るに足らない人間」とされる者をしばしば選んでご自分の真理を伝えてこられました。この分野におけるジョセフ・スミスの考えと自己分析に耳を傾けてください。

「当時、真剣に考えさせられ、またそれ以来しばしば考えさせられてきたことであるが、十四歳を少し超えたばかりの名もない少年、それも日々の労働によってわずかな生活費を得なければならない定めに置かれた少年が、当時最も評判の良い教派に属する偉い方々の注意を引き、最も激しい迫害と悪口雑言を浴びせようとする思いを彼らの心中に起こすほどの重要人物と思われようとは、何とも不思議なことである。しかし、不思議であろうとなかろうと、それは事実であり、しばしばわたし自身にとってひどい悲しみの種となった。

しかしながら、それでもわたしが示現を見たことは事実であった。…」(ジョセフ・スミス―歴史 1:23–24)
 

ジョセフ・スミスは自分のことを「無名の少年」と呼んでいましたが,決して「取るに足らない人間」とは言っていなかったことを,皆さんに思い出していただければと思います。ジョセフ・スミスはその危険な人生の日々を,神の力によってあらゆることを成し遂げられるという知識によって支えられていました。

神はわたしたちの最大の責任と特権の一つは,取るに足らない人間というラベルを貼られた人を,必要とされ,望まれるような「誰か」に引き上げることであることを理解できるよう助けてくださいます。この領域における私たちの最初の義務は、自分自身から始めることです。「私は取るに足らない人間だ」というのは、滅びの哲学です。それは欺く者の道具です。