「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -357ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

使徒行伝17:21
いったい、アテネ人もそこに滞在している外国人もみな、何か耳新しいことを話したり聞いたりすることのみに、時を過ごしていたのである。



「賢明に選ぶ」2014年10月、クエンティン・L・クック、十二使徒定員会
ときどき,わたしたちは軽薄な愚行と,意味のない騒音と,終わりのない論争の海に溺れていると感じることがあります。音量を落とし,実態を調べたら,義にかなった目標に向かう永遠の進歩のためになるものはほとんどないのです。ある父親は,こうした気をそらすものに触れたがる子供の度重なる要求に,賢明に応えています。ただこう問うのです。「それをやったらもっと立派な人間になれるのかい?」

大小にかかわらず,回復された福音の精神と相いれない間違った選択を正当化し始めると,必要な祝福や守りを失い,しばしば罪のわなに陥り,あっさりと道を見失ったりします。

特に心配しているのは,愚かな行いマルコ7:22参照)と「何でも新しい流行に」引かれることです。教会では,あらゆる種類の真理や知識の獲得を奨励し,称賛しています。しかし,神の幸福の計画とイエス・キリストの不可欠な役割から,文化や知識や社会習慣が離れると,社会の崩壊は避けられなくなってきます。現在,多くの分野,特に科学と通信の分野で空前絶後の進歩が見られる反面で,肝心な基本的な価値観が脅かされ,総体的な幸福福利が衰えています。

アテネのアレオパゴス評議所で話すよう招かれた使徒パウロは,知性を誇りながらも真の知恵に欠ける点で現代人と同じ人々がいることに気づきました。(クエンティン・L・クック「的のかなたに目を向ける」『リアホナ』2003年3月号)使徒行伝にはこう記録されています。「いったい,アテネ人もそこに滞在している外国人もみな,何か耳新しいことを話したり聞いたりすることのみに,時を過ごしていたのである。」使徒17:21パウロが強調したのは,イエス・キリストの復活でした。パウロの話が宗教的なものだと分かると,ある人は彼をあざけり,ある人は彼を無視して「この事については,いずれまた聞くことにする」と言いました。使徒17:32パウロは何ら成功を収めることなく,アテネを去りました。このアテネ訪問についてフレデリック・ファーラー司教はこう書いています。「パウロはアテネには教会を設立せず,アテネ人に向けた書簡も残しませんでした。度々アテネの近くを通過しましたが,再び足を踏み入れることはありませんでした。」(ファーラー,The Life and Work of St. Paul,312)

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

使徒行伝16:24-33
獄吏はこの厳命を受けたので、ふたりを奥の獄屋に入れ、その足に足かせをしっかとかけておいた。 真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた。 ところが突然、大地震が起って、獄の土台が揺れ動き、戸は全部たちまち開いて、みんなの者の鎖が解けてしまった。 獄吏は目をさまし、獄の戸が開いてしまっているのを見て、囚人たちが逃げ出したものと思い、つるぎを抜いて自殺しかけた。 そこでパウロは大声をあげて言った、「自害してはいけない。われわれは皆ひとり残らず、ここにいる」。 すると、獄吏は、あかりを手に入れた上、獄に駆け込んできて、おののきながらパウロとシラスの前にひれ伏した。 それから、ふたりを外に連れ出して言った、「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」。 ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。 それから、彼とその家族一同とに、神の言を語って聞かせた。 彼は真夜中にもかかわらず、ふたりを引き取って、その打ち傷を洗ってやった。そして、その場で自分も家族も、ひとり残らずバプテスマを受け、…



「主の厚い恵みを受ける」2020年10月、ゲーリー・E・スティーブンソン、十二使徒定員会
モルモン書を学んできたわたしたちは,ニーファイの言う多くの苦難が何を指すのかをよく知っています。しかし,自分の人生に苦難があったことを認めたうえで,ニーファイは生まれてこのかた主の厚い恵みを受けてきたと述べて1ニーファイ1:1,福音を通した見方を示しています。苦難と失望の時期にも,主は変わらず慈しみのまなざしでわたしたちを見守り,祝福を与えておられるのです。

……

先日,わたしと妻リサはオーストラリアの宣教師約600人とオンラインで集まりました。そのほとんどが,新型コロナウイルス感染症関連の何らかの規制の下にあり,多くは自分のアパートで働いていました。わたしたちは一緒に,新約聖書,旧約聖書,モルモン書,教義と聖約に登場する,逆境の中で主の祝福を受け,偉大な業を成し遂げた人物について考えてみました。どの人物も,投獄や束縛のためにできなかったことよりも,主の助けによってできたことの方が,その人となりを表しています。

パウロとシラスは,かせをはめられて投獄されている間に祈り,歌い,教え,証しました。看守にバプテスマを施したとまで書かれています。使徒16:24-33参照)

パウロはまた,ローマで2年間家に軟禁されていたときにも,「語り続け,神の国のことをあかしし」,使徒28:23「主イエス・キリストのことを教え」続けました。使徒28:31

ヒラマンの息子ニーファイとリーハイは,虐待され,投獄された後,主の「まったく優しい静かな声〔が〕……〔捕らえた者たちの〕心の底までも貫」く間,火に囲まれて守られたと書かれています。ヒラマン5:30

アモナイハでのアルマとアミュレクは,後にあざけられ,食べ物も着る物も与えられず,縛られ,投獄されたものの,アルマ14:22参照)多くの人が「信じ,悔い改めて聖文を調べ始めた」ことを知りました。アルマ14:1

……

兄弟姉妹の皆さん,今通過している大変な時期に中止された行事や,この時期に味わった悲しみ,失望,孤独感について,皆さん一人一人がいつの日か振り返るとき,これらの経験が,選り抜きの祝福や増し加えられた信仰と証のために,かすんで見えるようになると信じています。現世そして来世で,あなたの苦難,あなたにとってのアモナイハやリバティーの監獄が聖別され,自身の益とされると信じています。2ニーファイ2:2参照)ニーファイのように,わたしたちも自分の人生に苦難があることを認めつつも,同時に主の厚い恵みを受けていると知ることができるように祈ります。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

使徒行伝14:23
また教会ごとに彼らのために長老たちを任命し、断食をして祈り、彼らをその信じている主にゆだねた。



「主の祈りから得られる教訓」2009年4月、ラッセル・M・ネルソン、十二使徒定員会
主はわたしたちの祈りの力を高める方法を教えてくださいました。例えば,主はこのように言っておられます。「義人の歌はわたしへの祈りである。それに対する答えとして,彼らの頭に祝福が注がれるであろう。」教義と聖約25:12

また,祈りの力は断食によって高められます。使徒14:231コリント7:5オムナイ1:26アルマ5:466:617:317:928:645:13 ニーファイ27:14 ニーファイ1:12モロナイ6:5参照)主はこう言っておられます。「わたしはあなたがたに一つの戒めを与える。あなたがたはこれから先,祈りと断食を続けなければならない。」教義と聖約88:76ジョセフ・F・スミス大管長は,断食における知恵を願い求め,次のように注意しています。「度を越すということがあります。ある人は命をなくすまで断食し,祈るかもしれません。そのようなことは必要ないし,賢明なことでもありません。……主は短い言葉であっても信仰あふれる簡潔な祈りを聞いてくださいます。また, 24時間に満たない断食も認めてくださいます。ちょうど何千という言葉を費やし1か月断食してささげる祈りにこたえるのと同じように快く,同じ力をもってこたえてくださいます。……主は,過度で不必要な祈りよりも,十分な祈りを,さらに大きな喜びと満足感をもって受け入れてくださいます。」(ジョセフ・F・スミス,Conference Report,1912年10月,133-134で引用)