「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -33ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

サムエル上8:19-20

ところが民はサムエルの声に聞き従うことを拒んで言った、「いいえ、われわれを治める王がなければならない。

われわれも他の国々のようになり、王がわれわれをさばき、われわれを率いて、われわれの戦いにたたかうのである」。

 

「自由という完全な律法」(英文)1991年10月、マリオン・G・ロムニー、大管長会

このようなことは、イスラエルの歴史の中で繰り返し起こっています。イスラエルの民は、神の定められたさばきづかさによる統治を拒み、王を与えよとサムエルに訴えました。サムエルは、国王を立てれば、イスラエルの子孫は捕虜となり、重税と夫役を負わされ、戦いに送り出されるだろうと警告しました。「ところが民はサムエルの声に聞き従うことを拒んで言った、『いいえ、われわれを治める王がなければならない。われわれも他の国々のようになり……』」(サムエル上8:19-20)

 

そこでサムエルはサウルの頭に油を注いで王にしました。そのうちに、サムエルが預言したように、イスラエルの民は重い負担に苦しみ、息子や娘は王の奴隷となり、戦争が始まりました。国はイスラエルとユダの二つの王国に分裂し、やがて両国の民はそれぞれ他国の捕虜になって連れ去られました。彼らは政治的な自由を失うどころか、国家として存続することすらもできなくなってしまったのです。

 

......

 

自由意志を誤って用いれば、政治的、経済的、個人的な自由が失われますが、自由意志それ自体は永遠の原則ですから、なくなることはありません。しかし、自由意志はその使い方によって、適用できる範囲が広がったり狭まったりします。間違った決心をすればその度に、自由意志を使える範囲は狭まります。しかも、そのような自由意志の使い方をすればするほど、失った自由を取り戻すのが難しくなるのです。そして、あるところまでくると、もはや元の状態には戻れなくなり、惨めな奴隷となるだけです。自由意志を使うことによって、次第に自分の行動範囲が狭まり、ついには自由意志のない身動きできない状態に追い込まれてしまうのです。

 

 

 

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2026年版(BOX)

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

サムエル上8:4-7

この時、イスラエルの長老たちはみな集まってラマにおるサムエルのもとにきて、

言った、「あなたは年老い、あなたの子たちはあなたの道を歩まない。今ほかの国々のように、われわれをさばく王を、われわれのために立ててください」。

しかし彼らが、「われわれをさばく王を、われわれに与えよ」と言うのを聞いて、サムエルは喜ばなかった。そしてサムエルが主に祈ると、

主はサムエルに言われた、「民が、すべてあなたに言う所の声に聞き従いなさい。彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。

 

「不変の原則」(英文)1993年10月、ラッセル・M・ネルソン、十二使徒定員会

道徳的律法

 

神より与えられた道徳的律法も、不変の原則の一つです。この律法に背けば罰を受け、従順であれば「不変不易」の祝福を授けられます(教義と聖約104:2)。祝福は常に律法への従順さに応じて与えられます(義と聖約130:20-21参照)。そのために教会は、私たちが喜びを得られるよう、正義を行い、悪を退けるように教えるのです(2ニーファイ2:25参照)。

 

救い主とその僕は(教義と聖約1:38参照)、独善的な言葉ではなく、人が知る必要のあることを教えてくださいます。さまざまな時代を通じて、その時代時代の批判的な人たちが教会の指導者に主の教えを修正するよう圧力をかけてきたのは歴史的事実です(例として,サムエル上8:4-7;マタイ7:21;ルカ6:46;3ニーファイ14:21参照)。しかし、それは永遠の律法であり、変えられるものではありません。神は愛する独り子のためにさえ、贖いを必要とする律法を変えようとはされませんでした。神の教義は、時代の流行に合わせた都合のよい小さな型に押し込められるものではありません。また、自動車のバンパーステッカーにわずかな言葉ですべてを表現できるようなものでもありません。

 

 

 

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2026年版(BOX)

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

サムエル上3:10

主はきて立ち、前のように、「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれたので、サムエルは言った、「しもべは聞きます。お話しください」。

 

「個人の啓示ー預言者たちの教えと模範」2007年10月、ロバート・D・ヘイルズ、十二使徒定員会

預言者は,個人の啓示を受けることによって自分が生きるうえでの助けと,教会の地上における諸事を導く助けを得ています。わたしたちの務めは,自分自身のためと主から与えられた責任を果たすために,個人の啓示を祈り求めることです。

 

これまで何週間にもわたって,ヒンクレー大管長は,この大会で発表されることになる召しについて啓示を祈り求めてきました。1か月ほど前のことです。大管長会と十二使徒定員会が集う木曜日の神殿での集会で,ヒンクレー大管長が御霊の導きを求めて簡素で誠実な祈りをささげるのを聞きました。大管長の心からの祈りへの答えが,今こうしてわたしたち全員に明らかにされたのです。

 

預言者たちが生活の中で啓示を受けていることが分かったでしょうか。また,啓示を受ける同様の方式は,わたしたちの生活の一部となっているでしょうか。

 

啓示を受けるこの方式が,贖罪を土台としていることを,わたしたちは知っています。(使徒9章;モーサヤ27章;アルマ36章参照)罪を悔い改めて戒めを守るとき,わたしたちは贖罪の祝福を受けます。罪を悔い改めて戒めを守ることはバプテスマを受けたときに聖約したことであり,わたしたちはこの聖約を毎週聖せい餐さんを取るときに更新します。義にかなった生活を続けていれば,ふさわしい者となり,サムエルのように「しもべは聞きます。お話しください」(サムエル上3:10)と言えるようになります。 すると,主はこうお答えになるでしょう。「あなたがたの目は見ており,耳は聞いているから,幸いである。」(マタイ13:16)

 

預言者のように聖文を研究し,断食し,祈り,信仰を築くことによって,わたしたちは個人の啓示を受ける備えをします。信仰が鍵です。最初の示現を受ける前にジョセフが準備したことを思い出してください。

 

「あなたがたのうち,知恵に不足している者があれば,その人は,……神に,願い求めるがよい。……

 

ただ,疑わないで,信仰をもって願い求めなさい。」(ヤコブの手紙1:5-6)

 

揺るぎない信仰があれば,「奇跡が行われるのは信仰による」ということが自分で分かるようになります。」(モロナイ7:37)

 

一般に,紅海を分けたり,死者を生き返らせたり,牢ろうの壁を崩したり,天の使者が現れたりする奇跡は,神の力を物理的に示すものではありません。ほとんどの奇跡は本来,神の力が霊的に現れたものです。つまり奇跡とは,印象を受けたり,考えが浮かんだり,確信が持てるようになったり,問題の糸口が見つかったり,困難に立ち向かう力が得られたり,失望や悲しみに耐えられるよう慰めが与えられたりすることを通して,主の深い憐あわれみが穏やかに与えられることなのです。

 

こうした奇跡は,聖文の中で「信仰の試し」(エテル12:6)と呼ばれているものをわたしたちが堪え忍んでいるときに起こります。その試しが,答えを受けるまでにかかる時間であることもあります。デビッド・O・マッケイ大管長は若いころ,牛の世話をしながら,証を祈り求めました。しかし,証が得られたのは,それから何年もたったスコットランドでの伝道中のことでした。マッケイ大管長はこう述べています。「それは,わたしがまだ若く疑い深かったころ,一人ひそかに,丘や牧草地で熱心にささげた祈りに対する答えでした。この経験を通して,心からの祈りは『いつか,どこかで』こたえられるという確信を得ました。」(フランシス・M・ギボンズ,David O.McKay : Apostle to the World,Prophet of God(1986年),50で引用)

 

「今はその時ではない……辛抱強く待ちなさい」という答えもあるのです。

 

 

 

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2026年版(BOX)