「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -290ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

モルモン書タイトルページ
ユダヤ人と異邦人に、イエスがキリストであり、永遠の神であり、すべての国民に御自身を現されることを確信させるものである。


「神の慈しみと偉大さを深く考える」2020年4月、デール・G・レンランド、十二使徒定員会
皆さんが救い主のもとに引き寄せられるためには,何が必要ですか。イエス・キリストが御父の御心に従い,死に打ち勝ち,皆さんの罪と過ちを負い,皆さんのために取りなしをする力を御父から受け,究極的に皆さんを贖ってくださったことについて,深く考えてください。15皆さんがみもとに引き寄せられるために,これでは不十分ですか。わたしにとっては十分です。イエス・キリストは「両腕を広げて立ち,喜んで〔皆さんとわたしを〕癒し,赦し,汚れを取り,強め,清め,聖くし〔て〕」くださいます。)(ラッセル・M・ネルソン「行いを改善し,より良くなれます」2019年4月)

これらの真理はわたしたちに新しい心を与え,天の御父とイエス・キリストに従おうという気持ちを起こさせてくれるはずです。しかし,新しい心ですら「さまよいやすく,……愛してくださる神を離れがち」になることがあります。(“Come, Thou Fount of Every Blessing,”Hymns(1948), no. 70.)この性向に打ち勝つために,わたしたちは受けてきた賜物とそれに対する責任について日々思い巡らす必要があります。ベニヤミン王は言いました。「神​の​偉大さ​と​……​あなたがた​に​対する​神​の​​慈しみ​と​寛容,これら​を​覚えて,いつも​記憶​に​とどめて​おく​よう​に​して​ほしい。」モーサヤ 4:11アルマ36:2,28-29エテル7:27; 10:2モロナイ9:25も参照)そうするときに,天からの驚くべき祝福を受ける資格を得るのです。

神の慈しみと憐れみについて思い巡らすと,御霊を受けやすくなります。そして,御霊を受けやすくなると,聖霊の力によってすべてのことの真理を知ることができるようになります。モロナイ10:4-5参照)これには,モルモン書が真実だという証と,イエスがキリストであって自分の救い主であり贖い主であるという知識,主の福音がこの末日に回復されたことを受け入れることが含まれます。(モルモン書のタイトルページ序文参照)

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

黙示録20:10
そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。


「主の御手」2001年4月、ボイド・K・パッカー、十二使徒定員会
ベニヤミン王は罪悪を犯した者は「自分の罪と忌まわしい行いの恐ろしい思いに引き渡される。そして、その恐ろしい思いは彼らを主の前からしりごみさせ、決して戻ることのできない、惨めな無窮の苦痛の状態に彼らを陥れる」モーサヤ3:25 と述べました。

預言者ジョセフ・スミスはこのように語りました。「人は自分で自分を苦しめ、非難する。……人の心の中で起きる落胆という苫しみは、火と硫黄の池に匹敵するほど激しいものである。」(Deseret News, 8 July 1857, 138.)

決して燃え尽きることのない火と硫黄の池とは、聖文では地獄を表しています。黙示録20:1021:82ニーファイ9:16,19,262ニーファイ28:23

かりに、霊的な苦痛を癒したり、和らげたり、罪の苦しみを消し去ったりする方法がなかったとしたらどうなるかを想像してみてください。一つ一つの過ちや罪が積み重ねられて、永遠に責めさいなまれ、苦しみを受け、苦痛を受けるとしたら、それはどのようなことかを考えてみてください。多くの人は不必要に多くの罪の意識と辱めを負うことになります。

聖文は「すべての事物には反対のものがなければならない」と教えています。もしなければ、「義は生じ得ない」2ニーファイ2:11 し、幸福も、喜びも、贖罪もありません。

信仰箇条第3節はこのように教えています。「わたしたちは、キリストの贖罪により、全人類は福音の律法と儀式に従うことによって救われ得ると信じる。」この贖罪は、霊の死からの贖いと、罪によって引き起こされる苦しみからの贖いをもたらします。

どういうわけか、キリストの贖罪は、堕落と霊の死から瞭われるためにわたしたちがこの世の生活を終えるときだけに適用されると考える人がいます。しかし贖罪にはさらに大きな力があります。日常生活において求めることのできる、常に存在する力です。責めさいなまれ、苦しみを受け、苦痛を味わうとき、あるいは悲嘆に暮れているときに、主はわたしたちを癒すことがおできになります。わたしたちはキリストの贖罪がどのようにして行われるのかを完全に理解してはいませんが、「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安」ピリピ4:7 を経験することはできます。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

黙示録20:5-6
(それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。


「汝ら備えをなせ」(英文)1981年10月、リグランド・リチャーズ、十二使徒定員会
これより少し前、天使は死んでいた者が大いなる者も小さき者も共に神のみ前に立っているのを見せました。そして、数々の書物が開かれ、すべての人はその書物に記されている事柄とその行ないによって裁かれること、死も黄泉もその中にいる死人を出すことを示しました。黙示20:12-13参照)

天使はまたこう言いました。「この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。」黙示20:6

このように、第一の復活の朝に出て来るにふさわしい者になることは、何と素晴らしいことではないでしょうか。

しかも天使はこうつけ加えています。「それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生き返らなかった。」黙示20:5

人の子が聖なる天使たちと共に天の雲に乗ってこられ、キリストのために死んだ人々が墓からよみがえり、生者で信仰ある者が空中高く上げられてまたたく間に変えられる時に、一千年の間、墓の中に取り残される方に賭ける人がいるでしょうか。

私の好きなローマの哲学者キケロは、このはかない現在よりも、長い未来をどう生きるかの方がもっと重要だと述べています。

今日、通常の生活形態で言うと、子供たちは私たちと同じように、12年から20年の間学校に通って、この世で豊かに暮らし、文化的で洗練された生活を楽しむ方法を学びます。75年から100年の人生に12年から20年かけて備えるとすれば、終わりのない人生に備えるには、一体どれだけの年月が必要でしょうか。