黙示録20:10
そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。
「主の御手」2001年4月、ボイド・K・パッカー、十二使徒定員会
ベニヤミン王は罪悪を犯した者は「自分の罪と忌まわしい行いの恐ろしい思いに引き渡される。そして、その恐ろしい思いは彼らを主の前からしりごみさせ、決して戻ることのできない、惨めな無窮の苦痛の状態に彼らを陥れる」(モーサヤ3:25) と述べました。
預言者ジョセフ・スミスはこのように語りました。「人は自分で自分を苦しめ、非難する。……人の心の中で起きる落胆という苫しみは、火と硫黄の池に匹敵するほど激しいものである。」(Deseret News, 8 July 1857, 138.)
決して燃え尽きることのない火と硫黄の池とは、聖文では地獄を表しています。(黙示録20:10;21:8;2ニーファイ9:16,19,26;2ニーファイ28:23)
かりに、霊的な苦痛を癒したり、和らげたり、罪の苦しみを消し去ったりする方法がなかったとしたらどうなるかを想像してみてください。一つ一つの過ちや罪が積み重ねられて、永遠に責めさいなまれ、苦しみを受け、苦痛を受けるとしたら、それはどのようなことかを考えてみてください。多くの人は不必要に多くの罪の意識と辱めを負うことになります。
聖文は「すべての事物には反対のものがなければならない」と教えています。もしなければ、「義は生じ得ない」(2ニーファイ2:11) し、幸福も、喜びも、贖罪もありません。
信仰箇条第3節はこのように教えています。「わたしたちは、キリストの贖罪により、全人類は福音の律法と儀式に従うことによって救われ得ると信じる。」この贖罪は、霊の死からの贖いと、罪によって引き起こされる苦しみからの贖いをもたらします。
どういうわけか、キリストの贖罪は、堕落と霊の死から瞭われるためにわたしたちがこの世の生活を終えるときだけに適用されると考える人がいます。しかし贖罪にはさらに大きな力があります。日常生活において求めることのできる、常に存在する力です。責めさいなまれ、苦しみを受け、苦痛を味わうとき、あるいは悲嘆に暮れているときに、主はわたしたちを癒すことがおできになります。わたしたちはキリストの贖罪がどのようにして行われるのかを完全に理解してはいませんが、「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安」(ピリピ4:7) を経験することはできます。