「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -25ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

教義と聖約124:41

わたしは創世の前から隠されてきたこと、すなわち時満ちる神権時代に関することを、わたしの教会に示そうと思うからである。

 

「堅固な土台」2002年4月、ラッセル・M・ネルソン、十二使徒定員会

もう一つの柱は末日まで取っておかれた啓示に関するものです。主は長い間、「世の初めから隠されていること」マタイ13:35を明らかにする計画を建てておられました。モルモン書に記録されている啓示がその一部であり、2ニーファイ27:10照)聖なる神殿の儀式と聖約もそうです。教義と聖約124:40-41参照)主は預言者ジョセフ・スミスに次のように言われました。「わたしは創世の前から隠されてきたこと、すなわち時満ちる神権時代に関することを、わたしの教会に示そうと思う。」教義と聖約124:41

 

「死者のためのバプテスマの儀式〔は〕……創世の前から定められたものである」教義と聖約124:33ことを主は明らかにされました。このようにして「福音を知らずに死ぬ者」(教義と聖約128:5の救いが可能になりました。世代間の固いつながりが与えられ、神権時代と鍵と力と栄光のすべての、ことごとくの、完全な和合が可能になりました。教義と聖約128:18参照)

 

兄弟姉妹、これらの目に見えないながらも確かな柱は世界が造られる前から据えてありました。これらの柱は、現在完全に回復された永遠の福音を支えています。使徒3:20-21参照この土台の上に築かれているこの教会は揺らぐことがありません。ダニエル2:28、31-44;教義と聖約65:2-6;124:45参照)福千年がやって来ても揺らぎません。(ブルース・R・マッコンキー、The Milennial Messiah(1982年)、672参照)

 

 

 

ソルトレーク神殿(現在改修工事中、2027年4月オープン)

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2025年版(BOX)

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

教義と聖約124:20

さらにまた、まことに、わたしはあなたに言う。わたしの僕ジョージ・ミラーには偽りがない。その心が高潔であるので、彼は信頼できる。そして、彼がわたしの証に抱いている愛のゆえに、主なるわたしは彼を愛するのである。

 

「偽りのない者」(英文)1988年4月、ジョセフ・B・ワースリン、十二使徒定員会

末日の聖典によれば、主がエドワード・パートリッヂを教会の監督に召された理由はこうです。

「そは、彼のこころはわが前に潔くして、古えのナタナエルの虚偽なきが如くなればなり」教義と聖約41:11

 

また、預言者ジョセフ・スミスに与えられた別の啓示の中で、主はこう告げられました。

「わが僕ジョージ・ミラーは欺くことなき者なり。彼の心誠実なるを以て信任することを得。彼はわが証を為すを愛する故に、主なるわれ彼を愛す」教義と聖約124:20

 

これらの聖句から、ナタナエルやエドワード・パートリッヂ、ジョージ・ミラーの中に主が何をご覧になったのかが分かります。また、主が聖徒に期待しておられることについても洞察が得られます。

 

救い主は、十二使徒に召した人々の内に、心の清さを求めておられたと思います。主が「偽りがない」と言われたとき、それは外見よりもはるかに深いものを指していました。主は人の心を見通し、その人の義の中心を探られるのです。そしてそこに、キリストのような生活や徳の鍵となるものに触れられるのです。

 

 

 

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2025年版(BOX)

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

教義と聖約124:19

それは、彼がその業を終えるとき、現在わたしとともにいるわたしの僕デビッド・パッテンと、またわたしの僕エドワード・パートリッジと、またわたしの年老いた僕ジョセフ・スミス・シニアを迎えたように、わたしが彼をわたし自身のもとに迎えるからである。ジョセフ・スミス・シニアはアブラハムの右に座しており、幸いな者であり、聖なる者である。彼はわたしのものだからである。

 

「主の弟子となる」2006年10月、ジェームズ・E・ファウスト、大管長会

教会初期のころ,ジョセフ・スミスやハイラム・スミス以外にも,イエス・キリストの福音のために命をささげた弟子がいました。教義と聖約には,教会の最初のビショップだったエドワード・パートリッジの信仰について記されています。教義と聖約124:19

 

1833年7月20日,エドワードは,出産を終えたばかりの疲れ切った妻の傍らに腰かけていました。すると3人の暴徒が押し入り,彼を街頭の騒乱へと引きずり出し,すでにチャールズ・アレンが捕らえられていた広場へと引っぱって行きました。

 

300人から成る暴徒たちの主導者は,エドワードとチャールズにモルモン書への信仰を捨てるか,さもなければ町を去るよう要求しました。エドワード・パートリッジはこう答えました。「自分の宗教のために苦しまなければならないとしても,先駆者たちも同じ苦しみを受けているのだ。わたしには郡のだれかを傷つけた覚えはなく,従って立ち去ることには同意しない。わたしはだれも傷つけたことはない。もしもわたしに危害を加えるのなら,無実の者を傷つけるのだ。」暴徒たちは,皮膚を溶かす真珠の灰を含んだ熱いタールをエドワードとチャールズの頭から足まで塗りつけ,その上に羽毛を付けました。(B・H・ロバーツ,A Comprehensive History of the Church,第1 巻,333;アンドリュー・ジェンソン,Latter-day Saint Biographical Encyclopedia,全4巻(1901-1936年)第1巻,220)

 

預言者ジョセフ・スミスは,何年か後,46歳で他界したエドワードの死をこのように述べました。「エドワードはミズーリでの迫害の結果,命を落とした。そして,彼は,その血の責任を暴徒たちに要求する者の一人に数えられる。」(History of the Church,第4巻,132)エドワード・パートリッジは,大勢の義にかなった子孫たちの心に生き続ける遺産を残しました。

 

しかし,わたしたちの多くに求められるのは,教会のために死ぬことではなく,生きることです。多くの人々にとって,キリストのような生活を毎日送ることは,命をささげることよりも難しいかもしれません。戦時中には,多くの人々が命を顧みずに,無私で勇敢な,気高い行いをしました。しかし,戦争が終わって祖国へ戻ると,日々の苦労に耐えられず,最後には命を奪うことになるタバコやアルコール,ドラッグ,その他の不道徳の奴隷となっていきました。

 

ある人はこう言うかもしれません。「わたしは平凡な人間で,地位も名声もありません。教会に入ったばかりで,大した才能も能力もありません。何の力にもなれません。」あるいはこう言う人もいるでしょう。「わたしは変わるには年を取りすぎています。もう人生の大半を終えてしまっているのに,どうして変わる必要があるのですか。」変わるのに遅すぎることはありません。弟子になるのに,高い地位や富,学歴などは必要ありません。イエスの弟子には,あらゆる階層の人々がいます。しかし,弟子になるには邪悪な罪を捨て,スペンサー・W・キンボール大管長が言う「赦しの奇跡」(『赦しの奇跡』363)を味わう必要があります。これは,悔い改めからしか得ることはできません。つまり,罪を捨て,真理と正義につく者となる決意を日々新たにすることです。イエスはこう教えられました。「あなたがたはどのような人物であるべきか。まことに,あなたがたに言う。わたしのようでなければならない。」3ニーファイ27:27

 

 

 

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2025年版(BOX)