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「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

エノス1:10

わたしがこのように心を込めて祈っていると、見よ、再び主の声がわたしの思いに告げて、次のように言われた。「わたしはあなたの同胞を、わたしの戒めを守る勤勉さに応じて訪れよう。わたしは彼らにこの地を与えた。この地は聖なる地である。罪悪のゆえでなければ、わたしはこれをのろわない。それゆえ、わたしはすでに述べたように、あなたの同胞を訪れよう。また、彼らの背きに対しては、彼ら自身の頭に悲しみを下そう。」

 

 

「正しいメッセージを受け取りましたか」2004年4月、ジェームズ・E・ファウスト、大管長会

では,霊感を受けたときにどうすればそれが分かるのでしょうか。エノスは述べています。「わたしがこのように心を込めて祈っていると,見よ,再び主の声がわたしの心に聞こえて……言われた。」エノス1:10啓示の霊の声は必ずしも聞き取れませんが,思いや感情を通じて神聖な確信を与えます。教義と聖約の中で告げられているとおりです。「あなたに降くだってあなたの心の中にとどまる聖霊によって,わたしはあなたの思いとあなたの心に告げよう。」教義と聖約8:2わたしたちはその神聖な声に対する感性を養わなければなりません。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

エノス1:4-5

すると、わたしの霊は飢えを感じた。それで、わたしは造り主の前にひざまずき、自分自身のために熱烈な祈りと懇願をもって造り主に叫び求めた。わたしは一日中造り主に叫び求めた。また夜になっても、声が天に届くように、まだ大きな声を上げていた。

すると、わたしに声が聞こえた。「エノスよ、あなたの罪は赦された。あなたは祝福を受けるであろう。」

 

 

「わたしの心に書き記す」2000年10月、ヘンリー・B・アイリング、十二使徒定員会

天父の愛する御子エホバは、栄光に満ちた友の宮を離れてこの世にくだり、わたしたちが受けるはずのあらゆる苦しみを受け、わたしたちが犯す罪の代価を支払われました。主はわたしたちが再び天の家に帰れるように、すなわちわたしたちの天の御父と主のみもとへ帰ることができるように、唯一の道を備えてくださいました。もし、自分が何者であるかについて、今申し上げた事柄だけでも聖霊から告げられるなら、わたしたちも、わたしたちの子どもたちも、エノスと同じ気持ちを感じることができるでしょう。エノスはこのように祈りました。

 

「すると、わたしの霊は飢えを感じた。それで、わたしは造り主の前にひざまずき、自分自身のために熱烈な祈りと懇願をもって造り主に叫び求めた。わたしは一日中造り主に叫び求めた。また夜になっても、声が天に居くように、まだ大きな声を上げていた。

 

すると、わたしに声が聞こえた。「エノスよ、あなたの罪は赦された。あなたは祝福を受けるであろう。』」(エノス1:4-5)

 

もし皆さんの子どもたちが困ったときに祈ってこのような答えを受けるなら、皆さんはこの上ない喜びを味わうことでしょう。わたしはそう約束できます。皆さんはいつの日か子どもたちと離ればなれになり、もう一度会いたいと切望することになるでしょう。愛に満ちた天父は、もしわたしたちが家族として御父とその愛する御子とともに再会できないとしたら、その願いは永遠に満たされないことを御存じです。御父はそのすべての子どもたちを、どうしてもその祝福を得なければならない状況に置かれたのです。その祝福を得るためには、あの少年ジョセフ・スミスがしたように、何も疑わず、自分で神に求めなければなりません。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

エノス1:4

すると、わたしの霊は飢えを感じた。それで、わたしは造り主の前にひざまずき、自分自身のために熱烈な祈りと懇願をもって造り主に叫び求めた。わたしは一日中造り主に叫び求めた。また夜になっても、声が天に届くように、まだ大きな声を上げていた。

 

 

「祈りという命綱」2002年4月、ジェームズ・E・ファウスト、大管長会

多くの祈りはひざまずいてささげられます。ゲツセマネの園で救い主は、ひざまずいて御父に祈られました。ルカ22:41参照) しかし、口に出さずに心の中でささげられる祈りも天に届きます。わたしたちはこう歌います。「祈りは魂の見えぬ望み、述べても述べずも、胸に燃もゆる。」(「賛美歌』83番) 誠実な祈りは心からのものです。実に、誠実さは心の中の真剣な思いから来るものでなければなりません。意味のない繰り返しや、パリサイ人と取税人のたとえで救い主が非難されたように、人からよく見られようと思ってするようなものであってはなりません。ルカ18:10-14参照)誠実に祈るなら、わたしたちの祈りはほんとうに「心の歌」となり、「祈り」教義と聖約25:12 となります。そのような祈りは神に届くだけでなく、人々の心にも触れるのです。

 

エレミヤは一心に祈るように勧告しました。エレミヤ29:13参照)エノスは霊が飢えていたので一日中祈ったと述懐しています。エノス1:4 祈りには強弱があります。救い主でさえ、苦痛のときには「ますます切に祈られ」ルカ22:44 ました。感謝を述べたり、愛する人々や自分自身のためにこれからも祝福があるように求めたりする、簡潔な祈りもあるでしょう。しかし、個人的に深く傷ついたり特別な助けが必要だったりするときには、単に求めるだけでは不十分でしょう。主ほ言われました。「あなたはわたしに求めさえすれば、何も考えなくてもわたしから与えられると思ってきた。」教義と聖約9:7 祈りを通して祝福を求めるに当たって、わたしたちの方の働きと努力と勤勉が求められることがしばしばあります。

 

例えば、誠実さを示す強力な証拠として断食がふさわしいことがよくあります。アルマはゼラヘムラの民にこう証しました。「わたしは自分でこれらのことを知ることができるように、幾日もの間、断食をして祈ってきた。そして、これらのことが真実であるのを、わたしは今、自分自身で知っている。主なる神が神の聖なる御霊によってこれらのことをわたしに明らかにされたからである。」アルマ5:46 断食をすると心がへりくだり、詩篇35:13神とその神聖な目的に調和することができるのです。