「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -232ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

モーサヤ4:9

神を信じなさい。神がましますことと、神が天と地の万物を創造されたことを信じなさい。神はすべての知恵を備え、また天と地の両方で一切の権威を持っておられることを信じなさい。さらに、人は主が理解される事柄すべては理解しないということを信じなさい。

 

 

「憤りを感じるほどの不公平」2021年4月、デール・G・レンランド、十二使徒定員会

不公平な状況でわたしたちがするべきことの一つは,「人生の中で経験するすべての不公平なことは,イエス・キリストの贖いによって正される」と信じることです。『わたしの福音を宣べ伝えなさい—伝道活動のガイド』52。イザヤ61:2-3黙示21:4も参照)イエス・キリストは世に打ち勝ち,あらゆる不公平を「取り去ら」れました。主がおられるので,わたしたちはこの世で平安を得て元気を出すことができます。ヨハネ16:33参照)主に委ねるならば,主はこの不公平を聖別してわたしたちの益にしてくださいます。2ニーファイ2:2参照)慰めるだけでなく,失われたものを元に戻してくださいます。ヨブ42:10,12-13モルモン書ヤコブ3:1参照) 不公平をわたしたちの益にしてくださるのです。方法と時期については,アルマのように認め,受け入れる必要があります。「それは重要​で​はない。神​は​これら​の​こと​を​すべて​​御存じ​だからである。これ​が​事実​で​ある​と​いう​こと……​が​分かれ​ば,わたし​に​は​それ​で​十分​である。」アルマ40:5

 

方法と時期に関する疑問は後回しにして,イエス・キリストを信じ,イエスがすべてを正す力を持ち,そうしたいと切望されていることを信じる信仰を育むことに焦点を当てるようにするとよいでしょう。モーサヤ4:9参照)方法と時期を知ることに固執するのは,非生産的で,やはり近視眼的なのです。(ラッセル・M・ネルソン「神に勝利を」2020年10月)

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

モーサヤ4:7

わたしは言うが、その人は、アダムの堕落以来この世に住んだ、あるいは現在住んでいる、あるいは世の終わりまでに住む全人類のために、世の初めから備えられた贖罪によって救いを受ける人である。

 

 

「クリスチャンの愛と奉仕を実践することにより「わたしに従ってきなさい」」2016年10月、ロバート・D・ヘイルズ、十二使徒定員会

もしだれかとともに,あるいは独りで深く苦しんでいるなら,ぜひ救い主に助けていただきましょう。主の大きな腕に頼り,(“Lean on My Ample Arm,” Hymns,120番)主の確かな言葉を受け入れてください。「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る」,こう主は約束しておられます。ヨハネ14:18

 

兄弟姉妹の皆さん,まだ完全にそうしていないなら,赦しと思いやりと愛へと,向きを変えようではありませんか。生まれながらの性格に固執しようとする,人の心の中で猛威を振るうせめぎ合いを放棄し,キリストの思いやりと愛と平和を宣言しようではありませんか。教義と聖約98:16 参照)

 

もし「あなたがたはすでに神の栄光〔と慈しみ〕」モーサヤ4:11と「世の初めから備えられた贖罪」モーサヤ4:7を知るようになったなら,「あなたがたは,互いに傷つけ合う心を持たず,平和に暮ら〔す〕であろう。……あなたがたは子供たちが神の律法に背くのも,互いに戦うのも,争い合うのもほうってはおかないであろう。……むしろあなたがたは,……互いに愛し合い,互いに仕え合うように教えるであろう。」モーサヤ4:13-15

 

 

 

The Visit by Jorge Cocco Santangelo

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

モーサヤ4:6

あなたがたに言うが、もしあなたがたが、神の慈しみと神のたぐいない力、神の知恵、神の忍耐、人の子らへの神の寛容を知るようになり、また主に頼り、主の戒めを熱心に守って、自分の生涯、すなわち、死すべき体の生涯の最後まで信仰を持ち続ける人に救いが与えられるように、世の初めから贖罪が備えられてきたことをも知るようになったならば、

 

 

「与えられたもので満足する」2000年4月、ニール・A・マックスウェル、十二使徒定員会

アルマの短い言葉が、まじめな人々や彼を通して改宗した人々の心を開きました。「わたしは主から与えられたもので満足すべきだからである。」(アルマ29:3)けれども、その直前までアルマは「神のラッパ」となり「地を震わせる」ことを切に望んでいたのでした(アルマ29:1)。もちろん利己心から望んだのではなく、アルマは全人類に悔い改めと贖いの計画を告げ知らせて、地に悲しみがなくなるようにしたかったのです(アルマ29:2参照)。しかしアルマは、最終的には神が人の望むままになさるということに満足を覚えます(アルマ29:4参照)。これ以上に公平なことがあるでしょうか。

 

こうして召しに満足を覚えたアルマは、人を救う器となることを謙虚に望みます(アルマ29:9参照)。この重要な霊の旅路がわずか9節の独白の中に込められています。

 

わたしたちも自分の望みをよく吟味して神の御心に合わせれば、これと同じ満足が得られます。

 

……

 

わたしたちはアルマの霊感に満ちた示唆的な物語に別のものを見ます。アルマは、主はすべての国に主の言葉を説き教えることのできる人を置かれることを認めています(アルマ29:8参照)。したがって、自分の分担を広げようと何度も強く求めると、実際にほかの人々が働く場を狭めてしまいます。さらに、わたしたちが満たされた気持ちで信頼を示せば、聖霊が貴重な時間を特別な働きに費やすことがおできになるのです。

 

霊的な波長が合うと、「すべてのことの意味」を知らなくとも(1ニーファイ11:17)、霊的な確信が生まれます。この満たされた確信から生じるのは、高慢ではなく静かな悟りです。「熱心に… … 携わり」ますが、鐘や太鼓で触れ回ることはしません(教義と聖約58:2728節も参照)。

 

この霊的な満足が得られるのはイエスの贖罪を受け入れるときです。なぜなら「神の慈しみと神のたぐいない力、神の知恵、神の忍耐、人の子らへの神の寛容を知るようになり、また…… 世の初めから贖罪が備えられてきたことをも知るように」なるからです(モーサヤ4:6参照)。兄弟姉妹の皆さん、もう一度考えてみてください。「ラッパ」からへりくだった「器」へ、「地を震わせる」ことから「幾人かでも悔い改めに導」くことへのアルマの望みの変化は驚きです。さらに言い添えれば、わたしたちが成長する機会が与えられていることは何と驚くべきことでしょうか。それがわずか9節で表現されようと、一生かかろうと。