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「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

アルマ39:8

しかし見よ、あなたは自分の罪を神から隠すことはできない。また、悔い改めなければ、あなたの罪は終わりの日にあなたを責める証となるであろう。

 

「悔い改めによる清め」2019年4月、ダリン・H・オークス、大管長会

神の前で確かに清くあることができるように,わたしたちは最後の裁きの前に悔い改めなければなりませんモルモン3:22参照)。アルマが罪深い息子に告げたように,わたしたちは自分の罪を神から隠すことはできず,「また,悔い改めなければ,〔それらの〕罪は終わりの日に〔自分を〕責める証となる」でしょうアルマ39:8,強調付加)。イエス・キリストの贖罪は,悔い改めによって必要な清めを得る唯一の道であり,この現世の生涯はそれを得るために努める時なのです。霊界においてもある程度悔い改める機会があると教えられていますが教義と聖約138:31,33,58参照),それは確実ではありません。メルビン・J・バラード長老は次のように教えています。「肉体と霊が一つであるときの方が,克服して主に仕えることははるかに容易なのです。人が柔軟で受容性に富んでいるのは,まさに今なのです。……人生は悔い改めをする時です。」(Melvin J. Ballard, in Melvin R. Ballard, Melvin J. Ballard: Crusader for Righteousness (1966), 212–13.)

 

 

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2024年版(BOX)

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

アルマ39:4

この娼婦は多くの人の心を奪ったが、だからといって、わが子よ、これはあなたにとって決して言い訳にはならない。あなたは自分に託された務めに心を注ぐべきであった。

 

「答えなさい」(英文)1988年10月、二一ル・A・マックスウェル、十二使徒定員会

悪の習慣に染まった者の哲学は、「飲み食いをして楽しめ、……神はわずかにわむちわれわれを鞭うちたもう」と言うことですが、神に対して、また自分自身や人生に対してこのような考え方をすることは楽観的であり無知といえます。神は決して「小さな罪を犯すこと」をお許しになりません2ニーファイ28:8。神はこの宇宙を創造した神であり、私たちと押し問答をかわしたり、取り引きしたりして罪を軽くしてくれるどこかの判事とは違います。

 

もちろん神は寛大なお方です。しかし、神は私たちの心の中までご存じであり、もし私たちが不従順でなければどんなに良い行ないができたかをご存じです。いずれにせよ、他人の行ないがどうであれ、それは普通の人以上に多くを求められている弟子にとっては口実にはなりませんアルマ39:4;教義と聖約82:3参照)。しかも、まっすぐで狭い道を進む者には決して近道はないのです。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

アルマ36:17-19

そして苦痛に責めさいなまれていたときに、わたしは自分の多くの罪を思い出してひどく苦しみながら、見よ、かつて父がイエス・キリストという御方の来臨について民に預言するのを聞いたことを思い出した。イエス・キリストは神の御子であり、世の罪を贖うために来られるというのである。

心にこの思いがはっきりと浮かんできたとき、わたしは心の中で、『おお、神の御子イエスよ、苦汁の中におり、永遠の死の鎖に縛られているわたしを憐れんでください』と叫んだ。

さて見よ、このことを思ったとき、わたしはもはや苦痛を忘れることができた。まことに、わたしは二度と罪を思い出して苦しむことがなくなった。

 

「わたしがあなたがたを癒いやすことができるように,……悔い改めなさい」(英文)2009年10月、ニール・L・アンダーセン、十二使徒定員会

悔い改め、キリストのようになろうとする日々の努力の中で、時々、自分がいつも同じ問題で苦労していると感じることがあります。木が生い茂った山を登るときと同じで、頂上に近づいて高い尾根から振り返るまで、どれほど進んだか実感できないことがあるのです。がっかりしないでください。努力して悔い改めているのであれば、あなたは悔い改めの道を歩んでいるのです。成長するにつれて、人生をよりはっきりと見据え、聖霊がより力強く働きかけてくださるのを感じるようになります。

 

わたしたちは時々、なぜ遠い昔に捨てた罪の記憶を忘れられないのかと思うことがあります。悔い改めた後でも、犯した間違いを悲しみ続けることがあるのはなぜでしょう。

 

ジェームズ・E・ファウスト管長が語った心温まる話を思い出してください。

 

「わたしは小さな少年のとき、……祖母……が熱いまきコンロでおいしい食事を作っていたことを思い出します。コンロの横のまきを入れた箱が空になると、祖母は黙ってその箱を取り上げて出て行き、外に積んである杉のまきを詰めて、重くなった箱を家の中に運び込みました。」

 

ここまでくるとファウスト管長は感情が高まって声を詰まらせ、そして話を続けました。

 

「わたしはとても無神経で〔した〕。そこに座って、愛する祖母がまきの箱を運ぶのをただ見ていたのです。わたしは自分が恥ずかしく、怠惰であった〔罪〕をそれ以来ずっと後悔してきました。いつの日か、祖母に赦しを求めることができればと願っています。」(ジェームズ・E・ファウスト「律法の中でもっと重要な,公平と憐れみと忠実」『聖徒の道』1998年1月号,65参照)

 

65年以上も前の経験でした。それでも、祖母を手伝わなかったことをファウスト管長はまだ覚えていて、ずっと悔やんでいたのです。そうだとしたら、わたしたちの中で、忘れられずに悔やんでいることがあったとしても、驚くことはありません。

 

聖文には、わたしたちが死すべき世で捨てた罪を忘れるだろうとは書いてありません。そうではなく、主がお忘れになると書かれているのです。教義と聖約58:42-43アルマ36:17-19も参照)

 

 

 

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2024年版(BOX)