千九百十八年十月三日、わたしは自分の部屋にいて聖文に思いをはせ、
世の贖いのために神の御子が払われた大いなる贖いの犠牲と、
贖い主のこの世への来臨に当たって御父と御子が示された大きな驚くべき愛について深く考えていた。
書き記されているこれらのことを深く考えていると、わたしの理解の目が開かれ、主の御霊がわたしのうえにとどまった。そして、死者が小さな者も大いなる者もともに群れを成しているのが見えた。
「瞑想は生活を霊的なものにする」(英文)1982年4月、ジョセフ・B・ワースリン、七十人第一定員会
ジョセフ・F・スミス大管長に与えられた啓示の中に,私たちにとって大切なメッセージが記されています。
「1918年10月3日,私は自分の部屋にいて聖典の言葉に思いをはせ,世を救うために神の御子が払われた大いなる尊い犠牲……について深く考えていた。……これらのことについて深く考えていると,主のみたまが私の上にとどまり,理解の眼が開かれた。」(教義と聖約138: 1–3,11節)
私がきょうお話ししたいのは、この「深く考える」ということ,そして深く考えることによって得られる事柄についてです。
「深く考える」とは,心の中で思い計り,熟考し,瞑想することであり,それによって霊的な理解の眼を開くことです。また,スミス大管長が記述しているように,考える人には主のみたまがとどまります。
イエスはニーファイ人に次のように警告されました。「されば,汝らは各々その住居に帰りて後,われがこれまで汝らに語りしことをよくよく考えて,汝らの理解できるために……わが名によりて御父に祈るべし。」(3ニーファイ17:3)
私たちは聖典を通して,単なる表面的な関心ではなく,神の事柄にもっと注意を向けるよう教えられています。私たちは聖典についてもっと深く考え,私たちが一体何者なのか,また将来どうなるのかについて考えなければなりません。


