人が悔い改めるとき、主の喜びはいかに大きいことか。
「わたしはほかにはあり得ないほど麗しく,また快い喜びを味わった」2023年4月、クレーグ・C・クリステンセン、七十人
わたしたちが生活の中で主の贖いの犠牲による祝福を受ける度に,救い主が感じられるに違いない喜びを想像することは,助けになります。(教義と聖約18:13参照)ネルソン大管長が引用したように,(ラッセル・M・ネルソン「喜び—霊的に生き抜く道」83参照)ヘブル人への手紙の中で使徒パウロは,次のような洞察を分かち合っています。「いっさいの……からみつく罪とをかなぐり捨てて……信仰の導き手であり,また完成者であるイエスを仰ぎ見〔よう〕。彼は,自分の前におかれている喜びのゆえに,……十字架を忍び,神の御座の右に座するに至ったのである。」(ヘブル12:1-2)わたしたちはしばしばゲツセマネとカルバリでの苦痛と苦しみについて話します。しかし,救い主が命をささげられた際に予期しておられたに違いない大きな喜びについて話すことはめったにありません。明らかに,主の苦痛と苦しみはわたしたちのためで,わたしたちが神のみもとに戻る喜びを味わえるようにするためでした。
古代アメリカの人々を教えられた後,救い主は,彼らへの深い愛を込めてこう言われました。
「さて見よ,あなたがた……についてのわたしの喜びは,大きくて限りがない。また父も,……すべての聖なる天使たちも喜んでいる。……
……〔あなたがた〕のことでわたしは満ちみちる喜びを得ている。」(3ニーファイ27:30-31。救い主のニーファイ人の3人の弟子は,人々を主のもとに導くという唯一の目的を持って現世にとどまることを望みました。これらの忠実な弟子に,イエスは言われました。「このために,あなたがたは満ちみちる喜びを得,父の王国で座に着くであろう。父が満ちみちる喜びをわたしに与えてくださったように,まことに,あなたがたの喜びは満ちるであろう。そして,あなたがたはわたしのようになる。」(3ニーファイ28:10))


