主を恐れることは知識のはじめである、
愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。
「そこで彼らは恐れを静め」2015年4月、デビッド・A・ベドナー、十二使徒定員会
ここで説明しようとしている義にかなった畏れには,主イエス・キリストに対して深い崇敬と尊敬と畏敬の念を抱き(詩篇33:8;96:4参照),主の戒めに従い(申命5:29;8:6;10:12;13:4;詩篇112:1参照),最後の裁きと主の御手に正義を待ち望むことが含まれます。このように,主への畏れは主イエス・キリストの神性と使命についての正しい理解と,自分の思いを主の御心に喜んで従わせる意志と,全ての男女は裁きの日に自分自身の罪に対する責任を負うことになるという知識から生じます(教義と聖約101:78;信仰箇条1:2参照)。
聖文が明らかにしているように,主を畏れることは「知識のはじめ」であり(箴言1:7),「知恵の教訓」(箴言15:33),「安心を得」させるもの(箴言14:26),「命の泉」です(箴言14:27)。
主への畏れは,最後の裁きとわたしたち個人が自分の望み,思い,言葉,行いに対して責任を負うことについての理解に密接に関連していることに注目してください(モーサヤ4:30参照)。主を畏れるとは,裁きを受けるために主の御前に行くことにためらいと不安を覚えることではありません。わたしたちは主を怖いなどとは思わないと思います。むしろ,主の御前で自分自身のことをありのままに認め,自分が正当化してきた全てのことや見せかけの行為や自己欺瞞について「完全な知識」を得ることが怖いのです(2ニーファイ9:14。アルマ11:43も参照)。最終的に,わたしたちは弁解の余地がなくなります。
