「どちらを向いていますか」2014年10月、リン・G・ロビンズ、七十人会長会
人に対する面目を保とうとして,知らず知らずのうちに神に対する面目を失うことがあります。神を喜ばせると同時に人の不従順を大目に見ることができるという考え方を中庸とは言いません。そのような人は裏表あるいは二面性のある,もしくは「二人の主人に兼ね仕え」ようとする人です。(マタイ6:24;3ニーファイ13:24)
確かに,危機と向かい合うには勇気が必要ですが,真の勇気を示す勲章は,人に対する恐れを克服した者に与えられます。例えば,ダニエルは祈りの力によってライオンに立ち向かうことができましたが,彼が勇猛だったのは,ダリウス王に従わなかったからです。(ダニエル第6章参照)そのような勇気は,祈りをささげた神を恐れる人に授けられる御霊の賜物です。王妃エステルは,祈ることでそれと同じ勇気を得,危険にさらされることを知りながらも,夫であるアハシュエロス王に立ち向かいました。(エステル4:8-16参照)
勇気は単なる基本的な美徳の一つではありません。C・S・ルイスは次のように述べています。「勇気は,試練に遭ったとき,すべての美徳がとる形態なのだ。……ピラトは慈悲深くあることによって自らに危険が及びかねない状況になるときまでは,慈悲深い人間であった。」(C・S・ルイス,The Screwtape Letters,改訂版 (1982年), 137-138)ヘロデ王は,バプテスマのヨハネの首を切ってほしいと頼まれて悲しみましたが,「列座の人たち」を喜ばせたいと思いました。(マタイ14:9)ノア王は,アビダナイを釈放しようとしましたが,邪悪な祭司たちの圧力で心がぐらついてしまいました。(モーサヤ17:11,12参照)サウル王は,「民を恐れて,その声に聞き従った」ため,戦利品を捨てず,主の言葉に従いませんでした。(サムエル上15:24)アロンは,シナイ山のふもとで,反抗的なイスラエルをなだめるために,金の子牛の像を造り,どちらを向くべきかを忘れました。(出エジプト第32章)また新約聖書時代の総指揮官たちについて,次のように記されています。「〔主を〕信じた者が多かったが,パリサイ人をはばかって,告白はしなかった。会堂から追い出されるのを恐れていたのである。彼らは神のほまれよりも,人のほまれを好んだからである。」(ヨハネ12:42-43)聖文には,このような例が随所に記されています。
