そこでユダとベニヤミンの氏族の長、祭司およびレビびとなど、すべて神にその心を感動された者は、エルサレムにある主の宮を復興するために上って行こうと立ち上がった。
その周囲の人々は皆、銀の器、金、貨財、家畜および宝物を与えて彼らを力づけ、そのほかにまた、もろもろの物を惜しげなくささげた。
クロス王はまたネブカデネザルが、さきにエルサレムから携え出して自分の神の宮に納めた主の宮の器を取り出した。
すなわちペルシャ王クロスは倉づかさミテレダテの手によってこれを取り出して、ユダのつかさセシバザルに数え渡した。
その数は次のとりである。金のたらい一千、銀のたらい一千、香炉二十九、
金の鉢三十、銀の鉢二千四百十、その他の器一千、
金銀の器は合わせて五千四百六十九あったが、セシバザルは捕囚を連れてバビロンからエルサレムに上った時、これらのものをことごとく携えて上った。
「あなたがたは身を清めなさい」2000年10月、ジェフリー・R・ホランド、十二使徒定員会
さて、アロン神権あるいはメルキゼデク神権を受けている若い友人の皆さん、すべての祈りが直ちにこたえられるわけではなく、神権によるすべての宣言により蘇生や生命の維持が自由にできるわけでもありません。神の御心がそうでないときもあります。しかし若人の皆さん、皆さんはいずれ経験するでしょう。恐怖に駆られ身の危険さえ感じるときに、信仰と神権を持つ者として、最高の自分を差し出し、天に求め得る最高のものを呼び求めなくてはならない時を。アロン神権者の皆さんは、長老に聖任された者がメルキゼデク神権を行使するのとまったく同じ方法で神権を行使することはありません。しかし、すべての神権者は神の御手の器でなければなりません。そしてそうあるために、ヨシュアが述べたように、「あなたがたは身を清め」(ヨシュア3:5)なければなりません。行動するための備えをし、行動するにふさわしい者とならなければなりません。
そのために、主は聖文の中で次のように繰り返し言われました。「主の器をになう者よ、おのれを清く保て。(イザヤ52:11。3ニーファイ20:41;教義と聖約38:42;133:5も参照)「主の器をになう」という言葉はどういう意味かお話ししましょう。昔は少なくとも二つの意味がありました。二つとも神権の働きに関するものです。
第1は、ネブカデネザル王がバビロンに運び去った様々な神殿の品を取り戻して、エルサレムに返すことを指します。これらの品々を物理的に取り扱って返却する際、主は初期の兄弟たちに、神殿に関するものはすべて聖きよいということを思い起こさせられたのです。そこで、彼らは様々な皿、鉢、器、そのほかの品々を祖国に持ち返るとき、儀式用具と同じように自分自身を清くしなければなりませんでした。(列王下25:14-15;エズラ1:5-11参照)
第2の意味は第1の意味に関連しています。同様の鉢や用具が家庭で行う清めの儀式に使われました。使徒パウロは当時まだ若かった友人テモテにあてて、「大きな家には、金や銀の器……木や土の器もあり」と、救い主の時代に一般的であった洗いと清めの道具について書いています。しかし、パウロはこう続けています。「もし人が……〔ふさわしくない状態から〕自分をきよめるなら、彼は……きよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。そこで、……若い時の情欲を避けなさい。そして、きよい心をもって主を呼び求める人々と共に、義……を追い求めなさい。」(2テモテ2:20-22)
