「聖きみたまとの交わり」(英文)1980年4月、ジェームズ・E・ファウスト、十二使徒定員会
末日聖徒は、按手によって聖霊の賜物を受けているため、人生の中の小さな出来事においても、また人生に立ちはだかる巨大なゴリアテのような試練に直面するときにも、個人的な霊感を受ける権利があります(サムエル上17:1-11参照)。
エッサイの末子で、一介の羊飼いながら恐れを知らない少年ダビデは、自ら望んで巨人ゴリアテと戦いました。この恐るべき巨人は、ダビデやイスラエルの兵士たちを嘲弄し、侮辱しましたが、ダビデは自分にイスラエルを救うようにとの霊感があったことを承知していました。サウル王はこの少年の信仰と決意に動かされ、ダビデをゴリアテの挑戦者に指名しました。(サムエル上17:32-37参照)
ゴリアテは素手の少年ダビデを見て愚弄しました。それに対してダビデは、自分は万軍の主、イスラエル軍の神の御名によって立ち向かう、「この戦いは主の戦いで」あって、主は救いを施すのに剣や槍を用いられない、それを全会衆に知らせるのだと返答しました(サムエル上17:47参照)。
ダビデが石投げ器を使って投げた石は、勢いよく飛んでゴリアテの額に命中して深く突き刺さり、ゴリアテは倒れました。死んだようになって地に倒れたゴリアテを見て、ペリシテ人は震え上がって逃げ出しました。
ダビデを導いたこの生ける神はどうなったのでしょうか。旧約聖書のアブラハム、モーセ、イザヤ、その他の預言者たちにあのように自在に語られた神が、今は口をつぐみ、黙して語らぬと決め込むのはこの上ない冒瀆です。
どうなのでしょう。神は古代の預言者たちに導かれた民ほど私たちを愛しておられないのでしょうか。私たちには神の導きや教えが必要ないのでしょうか。そんなはずはありません。神はもう顔をそむけられたのでしょうか。声を失われたのでしょうか。永久の休みに入られたのでしょうか。眠っておられるのでしょうか。これらがどれも理にかなわないことは明白です。
