そしてギレアデびとはエフライムに渡るヨルダンの渡し場を押えたので、エフライムの落人が「渡らせてください」と言うとき、ギレアデの人々は「あなたはエフライムびとですか」と問い、その人がもし「そうではありません」と言うならば、
またその人に「では『シボレテ』と言ってごらんなさい」と言い、その人がそれを正しく発音することができないで「セボレテ」と言うときは、その人を捕えて、ヨルダンの渡し場で殺した。その時エフライムびとの倒れたものは四万二千人であった。
「友か敵か」(英文)1983年10月、チャールズ・A・デイデイエ、七十人第一定員会
軍の支配者たちは、敵と味方をいち早く区別するために合い言葉を考え、ほかにもいろいろな方法を編み出してきました。聖典にも、このような敵味方の識別に関する物語がいくつかあります。
士師記を開いてみましょう。戦いの終わりにあたり、エフライム人の軍はヨルダンの領域を通り抜けようとしていました。不幸にも、逃げ道は彼らの敵ギレアデ人がすでに占領していました。ギレアデ人は、彼らが敵か味方かを確かめなければなりませんでした。そこでエフライムの落人に、「あなたはエフライムびとですか」と問い、その人がもし「そうではありません」と言うならば、「では『シボレテ』と言ってごらんなさい」と言いました。それはエフライム人が「シボレテ」と正しく発音できなかったからです(士師12:5-6)。
その発音の違いは死を招き、4万2千人もの人がその日殺されました。確かにこの区別のしかたは成功し、誤解の余地を残しませんでした。
敵か味方か、その答えはふたつにひとつです。もちろん命が惜しければ味方のように振る舞うこともできますが、結果は同じです。この敵味方の区別と、神の器となり得る人を見つける選択過程とには類似点があります。
人類の歴史が示しているように、人間の犯した大きな過ちのひとつは、自分勝手に対立を作り出しておきながら、人種や文化、政治的な相違だと言って、宗教戦争を起こし、人類への挑戦をキリストの名のもとに正当化しようとしてきたことです。
今日、この複雑な世の中にあり、このような戦いと最後の大破壊を避けるため、キリスト御自身が与えられたメッセージをよく思い起こす必要があるでしょう。
「敵を愛し、のろう者を祝福し、憎む者に善をなし、汝らをないがしろにして責め苦しむる者のために祈れ。」(3ニーファイ12:44)
そして個人の根本的な問題として、自分は神の友であるのか敵であるのかを考えてみる必要があります。これは永遠にかかわることです。このことを正しく理解していれば、神との関係が永遠の生命をもたらすことでしょう。しかし、誤った解釈をしたり、その関係が間違って使われたり表されたりした場合、それは霊的また肉体的な死をもたらします。
