一か月に及び、ついにあなたがたの鼻から出るようになり、あなたがたは、それに飽き果てるであろう。それはあなたがたのうちにおられる主を軽んじて、その前に泣き、なぜ、わたしたちはエジプトから出てきたのだろうと言ったからである。
「つぶやくことなかれ」(英文)1989年10月、ニール・A・マックスウェル、十二使徒定員会
しかし、あくびがときには言葉以上の意味を伝えてしまうように、つぶやきもただの言葉以上の意味を持つことがあります。私たちのつぶやきのいくつかは、昔民がモーセに向けてつぶやいたように、本当は主に向けられたものであることが明らかです(出エジプト16:8;1ニーファイ16:20参照)。
つぶやきは、生まれながらに肉欲に従う人間にとってはごく自然のことのように思えます。聖典の中にも随所にこのつぶやきが見られます。パンと水がほしい(民数21:5参照)。救援が来ない(アルマ60参照)。なぜエジプトを離れたのか(民数11:20参照)。なぜエルサレムを離れたのか(1ニーファイ2:11参照)。不信者からの迫害へのつぶやきや、教会の名前についてのつぶやきさえあります(モーサヤ27:1;3ニーファイ27:3-4参照)。皮肉にも、新たな聖典の出現にもつぶやきがついてまわります(2ニーファイ29:8参照)。
古代の聖典に見られるつぶやきの例として、カインの捧げ物がありますが、これは私たちの行ないだけでなく、心も大切であることを教えています(モーセ5:20-21参照)。カインはアベルの捧げ物が受け入れられたのに、自分の捧げ物は退けられたことに立腹しました。私たちもときどき、ほかの人の方が自分より多く愛されているのではないかと思うことがあります。もっと悪いのは、主の望みどおりではなく、自分の望みどおりに受け入れられたいと思うことです。
つぶやきの原因は、人生は楽なものだと思うことにあります。行く先々の信号はみな青で、駐車場はいつも空いているという状態を思い浮かべてしまうからなのです。
