そして、わたしたちはこれによって彼らを試し、何であろうと、主なる彼らの神が命じられるすべてのことを彼らがなすかどうかを見よう。
「これによって彼らを試し(アブラハム3:25)」2020年10月、デビッド・A・ベドナー、十二使徒定員会
同様に,現世の学校における試験は,永遠の進歩に不可欠なものです。ところが興味深いことに,「試験」という言葉は,英語の標準聖典に収められた聖文において一つたりとも見当たりません。天の御父の永遠にわたる幸福の計画に対するわたしたちの霊的な知識,理解度,献身の度合いとともに,救い主の贖罪の祝福を求めるわたしたちの能力を適切な形で明らかにする様々なパターンを言い表す際には,「試す」「調べる」「試みる」といった言葉が用いられています。
救いの計画を立てられた御父は,古代および現代の聖文において,「試す」「調べる」「試みる」という言葉を用い,試しの生涯の真の目的を言い表しておられます。「そして,わたしたちはこれによって彼らを試し,何であろうと,主なる彼らの神が命じられるすべてのことを彼らがなすかどうかを見よう。」(アブラハム3:25)
詩篇を著したダビデによる嘆願の言葉について考えてみましょう。
「主よ,わたしをためし,わたしを試み,わたしの心と思いとを練りきよめてください。
あなたのいつくしみはわたしの目の前にあり,わたしはあなたのまことによって歩みました。」(詩篇26:2-3)
1833年,主はこのように宣言しておられます。「それゆえ,あなたがたの敵を恐れてはならない。あなたがたがふさわしいと認められるように,死に至るまでもわたしの聖約の中にとどまるかどうか,あらゆる点であなたがたを試すことを,わたしは心の内に定めたからである,と主は言う。」(教義と聖約98:14)
