それゆえ、主は、祈りはかなえられるという不変の聖約をもって、あなたがたに約束を与える。また、あなたがたを苦しめたすべてのことは、あなたがたの益のために、またわたしの名の栄光のためにともに働く、と主は言う。
「主を待ち望む-みこころが行われますように」2011年10月、ロバート・D・ヘイルズ、十二使徒定員会
わたしたちは主を待ち望むとき,「いつの日かあらゆる苦難を離れて休める」(アルマ34:41)と理解しながら,「確固として動かずに神の戒めを守り」(アルマ1:25)ます。
そして,「〔わたしたち〕を苦しめたすべてのことは,〔わたしたち〕の益のために……ともに働く」ことを信じ(教義と聖約98:3),「〔わたしたちの〕確信を放棄し」(ヘブル10:35)ないのです。
こうした苦難にはあらゆる形と程度があります。ヨブの経験はわたしたちがどのような忍耐を求められるかを思い起こさせます。ヨブは持てるものすべて,土地と家と家畜,家族,名声,健康,精神の安定さえも失いました。にもかかわらず,主を待ち望み,自らの力強い証を述べたのです。
「わたしは知る,わたしをあがなう者は生きておられる,後の日には彼は必ず地の上に立たれる。
わたしの皮がこのように滅ぼされたのち,わたしは肉を離れて神を見るであろう。」(ヨブ19:25-26)
しかしわたしたちは,ヨブ,預言者,救い主の類いまれな模範をもってしても,主を待ち望むことが難しいことがあります。特に,わたしたちのために用意された主の計画と目的を十分に理解できないときがそうです。この理解はほとんどの場合「教えに教え,〔そして〕訓戒に訓戒」(2ニーファイ28:30)を加えて深まります。
人生の中で時々祈りの答えを受けないのは,まだわたしの準備が整っていないことを主が御存じだからだと学びました。主がこたえてくださるときはたいてい,「ここにも少し,そこにも少し」(2ニーファイ28:30)なのです。それは,わたしにはそれしか耐えられないか,進んで行えないからです。
忍耐力を与えてくださいと祈りながら,今すぐに欲しいということがしばしばあります。デビッド・O・マッケイ大管長は若いころ,福音が真実だという証を祈り求めました。何年も後,スコットランドで伝道しているときに,ついにその証を得ました。後にこう書いています。「心からの祈りは『いつか,どこかで』こたえられるという確信を得た。」(歴代大管長の教え-デビッド・O・マッケイ』(2003年))
主の答えがいつ,どのようにして与えられるか分かりませんが,主の時に,主の方法でこたえられることを証します。来世に行くまで待たなくてはならない答えもあるでしょう。祝福文の約束や家族に授けられた祝福の中には,それに当てはまるものもあるでしょう。主への信頼を絶やさないようにしましょう。主の祝福は一時的なものではなく,永遠のものです。
