見よ、見よ、これはこの神権に聖任され、出て行く使命に定められたすべての者にとっての一つの範例である。
また、聖霊に感じるままに語ることは、彼らにとっての範例である。
そして、何であろうと聖霊に感じて語ることは、聖文となり、主の心となり、主の思いとなり、主の言葉となり、主の声となり、救いを得させる神の力となる。
「聖文の祝福」(英文)2010年4月、D・トッド・クリストファーソン、十二使徒定員会
聖書に加え、わたしたちはモルモン書、教義と聖約、高価な真珠など、900ページにも及ぶ聖文を与えられています。これがどれほど大きな祝福であるか、考えてみてください。さらにこれらに加えて、わたしたちはこの大会のような機会を通して、預言者が聖霊に感じるままに語る言葉、すなわち主が「聖文」と呼ばれる言葉(教義と聖約68:2–4参照)を受けることができるのです。これらの言葉はテレビ、ラジオ、インターネット、衛星放送、CD、DVD、出版物を通してあふれるほどに与えられています。人類の歴史が始まって以来、これほど豊かに聖文に恵まれている民は他にいないのではないでしょうか。それだけではありません。すべての男性、女性、そして子供が、このような神聖な言葉をほとんどの場合自分の国の言語で、個人的に所有し、研究することができるのです。この事実は、ウィリアム・ティンダル※ の時代に生きた人々にとっても、過去の神権時代に生きた聖徒たちにとっても、どれほど驚くべきことであったでしょうか。この祝福をわたしたちにお与えになることで、主は、現代に生きるわたしたちが、常に聖文を用いる必要性がこれまでのいかなる時代にも増して高いことを語っておられるのです。ですから、わたしたちは「キリストの言葉を常に心に味わう」(2ニーファイ32:3)ことができるように努めるべきです。わたしは、聖文を学び、深く考えてきました。そしてこの復活祭の時期に、聖文によって明らかにされているとおり、御父と御子について証します。イエス・キリストの御名により、アーメン。
※ブログ主注:ウィリアム・ティンダルは「聖文を民に届けるために命を捧げた人」で、聖書を初めて英語に翻訳・出版し、処刑された16世紀イングランドの宗教改革者です。
