今日が過ぎると、焼き払いがある。これは主の言い方である。まことに、わたしは言う。明日、すべて高ぶる者と悪を行う者は、わらのようになる。わたしは彼らを焼き尽くそう。わたしは万軍の主である。わたしはバビロンにとどまる者をだれも容赦しない。
「器の内側を清める」(英文)1986年4月、工ズラ・タフト・ベンソン大管長
本来、高慢とは、神のみこころを忘れ、自分の考えに固執するものの考え方です。高慢の反対は、謙遜、柔和、従順(アルマ13:28参照)、あるいは素直さと言うことができます。
回復された教会の初期に、主は二人の傑出した教会員に対し、高慢についての警告を与えられました。一人はオリバー・カウドリです。主は彼に、「誘惑に陥らざる様、たかぶりを慎しめ」(教義と聖約23:1)と言われました。また、もう一人のエマ・スミスに対しても、「たえず優しき心を持ち、たかぶりを警めよ」(教義と聖約25:14)との言葉を授けられました。
主は私たちに、「汝のこころの中に高慢あるべからず」(教義と聖約42:40)と警告しておられます。さらにモルモン書には「神の前にへりくだらなくてはならない」(モーサヤ4:10)と書かれています。終わりの日に地が火によって清められるとき、誇り高ぶる人々は、わらのように焼き尽くされるでしょう。(3ニーファイ25:1、教義と聖約29:9、64:24)
リーハイが見た「広々とした大きな建物」は、世の人々の高慢の象徴であり、そこには数多くの人が集まっていました。(1ニーファイ11:35-36)まっすぐで狭い道を歩き、神のみ言葉にしっかりとつき、神の愛にあずかっていた人々は、この建物にいた人々からあざけり笑われました(1ニーファイ8:20, 27, 33;11:25参照)。
「キリストに従う謙遜な弟子」は、ごく少数しかいません(2ニーファイ28:14)。高慢な人は神を仰ぎ見ることも、何が正しいかを顧みることもしません。人を見下し、独善的に人の善し悪しを裁きます。高慢さは、人と争う態度の中にはっきりと表れます。
ルシフェルが「悪魔」と呼ばれるようになったのは、その高慢さが原因ではなかったでしょうか。悪魔は人を自分の支配下に置こうとしましたが、キリストはご自身のところに私たちを導こうとされました。悪魔の望みは、人間の上に立つことでした。
一方、キリストはその完全な生涯において、ご自分の意志を顧みることなく、御父のみこころが果たされることを最も重要なこととされました。
「私はこの人生で何をしたいのだろうか」という考え方は、高慢さを示すものです。その対にあるのが、「主は私にこの生涯において何をするように望んでおられるのだろうか」という考えです。利己的な思いは神の思いとは相入れず、それは結局、神よりも人を恐れることなのです。
