人々はまことに彼らの欲するままに、人の子をあしらった。人の子は神の栄光の右手にあって自分の力を得て、現在は天において治めており、また地上に降って来てすべての敵を自分の足の下に置くまで治めるであろう。その時はもう近づいている。
「キリストの贈いの血の効力を及ぼす」(英文)1997年10月、ニール・A・マックスウェル、十二使徒定員会
時々、わたしたちも、逆境という「パンの堅い耳」のような皮肉な状況に直面します。イエスは、常にあざけられる状況に身を置かれていました。例えば、この地球は「主の足台」(使徒7:49–50参照)ですが、ベツレヘムでは主のお泊まりになる部屋も寝床もありませんでした(ルカ2:7)。イエスはこう言われました。「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」(ルカ9:58)。また、讃美歌120番もこの状況を思い起こさせます。最も罪のない御方が最も苦しまれ、人々は「彼らの欲するままに、人の子をあしらった」(教義と聖約49:6)のです。救いをもたらす唯一の名(使徒4:12、2ニーファイ25:20、アブラハム3:27参照)を持ちながら、宇宙の主は「おのれをむなしうして」質素に生活されました(ピリピ2:7)。キリストは宇宙を造られましたが、小さなガリラヤでは「大工の子」として知られているだけでした(マタイ13:55)。
少しでも皮肉な状況に襲われると、わたしたちはとても傷つきやすくなり、試しの幾つかは本来不公平なものだということをしばしば忘れてしまいます。特に、状況が厳しいときにはなおさらです。
兄弟姉妹の皆さん、万人の復活という無償の偉大な賜物とともに、永遠の命にあずかる可能性が個々に与えられています。わたしたちは、チャレンジや義にかなった生活、忍耐を通して成長し、ついには特質や属性がイエスに似たものとなり、いつの日か天の御父のみもとで永遠に住むことができるのです。今、そのように生活することによって、「神の前において」自信が増すでしょう(教義と聖約121:45)。預言者ジョセフ・スミスはこの点についてこう宣言しました。
「神がおられる場所へ行きたいと望むなら、神のようにならなければならない。すなわち、神がお持ちの原則を自ら所有しなければならない。」(『預言者ジョセフ・スミスの教え』ジョセフ・フィールディング・スミス編、216ページ)
