しかし、わたしの弟子たちは聖なる場所に立ち、動かされない。しかし、悪人の中では、人々が声を上げ、神をのろって死ぬであろう。
「愛の腕の中に抱かれて」2002年10月、ニ一ル・A・マックスウェル、十二使徒定員会
兄弟姉妹の皆さん,混乱の時代に生きるわたしたちも,聖なる場所に立って動かされないことが可能です(教義と聖約45:32;87:8参照)。暴力の時代にあっても,人知で、はとうてい計り知ることのできない内なる平安を手に入れることができます(ピリピ4:7参照)。理解を超えることが起きたとしても,ニーファイのように,神がわたしたちを愛しておられることが分かりますし,神の愛というこの至福の根本的な事実さえ確信していれば,多くの困難を乗り切ることができます(1ニーファイ11:17参照)。
どうしたら,神がわたしたちを心にかけ,愛しておられることが分かるのでしょうか。神は聖文を通して語りかけられます。また,生活の中で受けている祝福と恵みを誠実な心で数え上げることも助けになります。そして何よりも,神は御霊の静かな細い声を通してその愛を伝えられるのです(アルマ34:38;教義と聖約78:17-19参照)。
弟子であるために必要な「大きな変化」は,ローラーコースターのように思えるかもしれません。啓示によって高められ,その結果得た展望によって低くへりくだるという繰り返しだからです。次のように叫んで「地に倒れた」モーセも同じでした。「人は取るに足りないものであることが分かった。このことは,思ってもみないことだった。」(モーセ1:9-10)しかしその後に彼が主から受けたのが,次の重大な真理でした。「見よ,人の不死不滅と永遠の命をもたらすこと,これがわたしの業であり,わたしの栄光である。」(モーセ1:39)
「大きな」変化を遂げることは並たいていのことではありません。生まれながらの人が持つ衝動に絶えず影響され,じゃまされるからです。この世の雑事に煩わされ,自分の可能性をつぶしていることがあまりにも多いので,わたしたちを飛躍させてくれるような啓示を受けても,準備ができていることはまれです。しかし,考えてみてください。わたしたちの霊の部分は実際に永遠の存在です。そして,わたしたちは初めに神とともにいたのです(教義と聖約93:29,33参照)。
もちろん,このすべてを直ちに,完全に理解することはできません。今すぐ,すべての意味を理解することが無理なことも,当然です。しかし,神がわたしたち一人一人を御存じで愛しておられることを知るのは,今すぐできます。
それでは兄弟姉妹,神をもっと知り,愛することを妨げているものは何なのでしょうか。それは,すべての罪を捨てようとせず,とりあえずわずかな悔い改めだけで十分だと考えることです。同様に,神の御心に自分の意志をのみ込ませる,つまり完全に従わせようとせず,神の御心を認めるだけで十分だと考えることです(モーサヤ15;7参照)。
