モロナイ10:21 愛はいつまでも絶えることがない | 「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

2024年大管長会クリスマス・ディボーショナル

 

週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

モロナイ10:21

あなたがたに慈愛がなければ、あなたがたは決して神の王国に救われない。また、信仰がなければ神の王国に救われないし、また希望がなければ救われない。

 

「愛はいつまでも絶えることがない」2010年10月、トーマス・S・モンソン大管長

「愛はいつまでも絶えることがない」1コリント13:8 という扶助協会のモットーを,わたしはいつも愛してきました。愛すなわち慈愛とは何でしょうか。預言者モロナイは,「慈愛はキリストの純粋な愛」モロナイ7:47であると教えています。モロナイは,レーマン人に別れを告げる言葉の中でこう宣言しています。「あなたがたに慈愛がなければ,あなたがたは決して神の王国に救われない。」モロナイ10:21

 

慈愛,すなわち「キリストの純粋な愛」は,批判することや裁くことの対極にあるとわたしは考えます。慈愛といっても,ここでは物資を与えて苦痛を和らげるということには触れません。もちろんそれは必要で,行うべきことです。しかし今晩は,寛大になり,人の行動をおおらかな心で受け止めるときに示す慈愛について考えています。すという慈愛,忍耐するという慈愛です。

 

わたしが考えている慈愛とは,病気のときや悩み苦しむときだけでなく,相手の欠点があらわになったときにも,間違いを犯したときにも,相手の立場になって考え,同情し,慈しみを示すことです。

 

忘れ去られている人に目をかけ,落胆している人に希望を与え,苦しんでいる人を助ける慈愛が大いに必要とされています。真の慈愛は,行動する愛です。慈愛は至る所で必要とされています。

 

必要とされているのは,当事者のためになる場合を除き,他人の不幸なうわさを聞いたり人に話したりすることを喜びとしない慈愛です。アメリカの教育者であり政治家でもあったホーレス・マンはかつてこう言いました。「悩みに同情するのはただの人間,悩みを和らげてこそ神の子となるのだ。」(ホーレス・マン,Lectures on Education(1845年),297)

 

慈愛とは,自分を打ちのめす者に忍耐することです。ささいなことに腹を立てないように気持ちを抑えることです。人の欠点や失敗を受け入れることです。人をありのままに受け入れることです。外見の奥にある,時が過ぎても衰えることのない特質に目を向けることです。レッテルをはろうとする衝動を抑えることです。

 

キリストの純粋な愛である慈愛は,独身ワードの若い姉妹たちが,自分たちの扶助協会の会員の母親の葬儀に出席するために一緒に何百マイルも移動するときに表れます。慈愛は,献身的な訪問教師が,興味を示さず多少批判的な姉妹を何年にもわたって毎月訪問する姿の中に示されます。夫を亡くした年配の女性が忘れ去られずにワードの行事や扶助協会の活動に連れて来られるとき,そこに慈愛があります。扶助協会でぽつんと独りでいる姉妹に「一緒に座りましょう」と声をかけるときに慈愛が感じられます。

 

幾つもの小さな方法で,皆さんのだれもが慈愛を示すことができるのです。完璧な人生を送っている人などいません。互いを裁かず批判せず,この人生を一緒に旅する人たちにキリストの純粋な愛を示そうではありませんか。だれでも自分に降りかかる問題に全力で取り組んでいるのです。そのことを認めて,助けるためにわたしたちにできる全力を尽くしましょう。

 

 

 

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2024年版(BOX)