見よ、わたしはあなたがたに勧めたい。あなたがたにとってこの記録を読むことが、神の知恵にかなうようであれば、あなたがたはこれを読むときに、アダムが造られてからあなたがたがこれを受けるときまで、主が人の子らにどれほど憐れみをかけてこられたかを思い起こし、それを心の中で深く考えてほしい。
また、この記録を受けるとき、これが真実かどうかキリストの名によって永遠の父なる神に問うように、あなたがたに勧めたい。もしキリストを信じながら、誠心誠意問うならば、神はこれが真実であることを、聖霊の力によってあなたがたに明らかにしてくださる。
「信仰の調べに波長を合わせる」2012年4月、クエンティン・L・クック、十二使徒定員会
選択の自由という非常に重要な教義により,回復された福音についての証は,外部の,あるいは科学的な証拠ではなく,信仰に基づくものでなければなりません。救い主はどのようにしておとめから誕生したり,復活したりされたのか,ジョセフ・スミスはどのようにして聖文を翻訳したのかなど,まだ完全に明らかにされていない事柄に執着することは効果的でなく,霊的な進歩も得られません。これらは信仰に関する問題だからです。結局のところ,聖文を読み,深く考えて,その後,それが真実であることを御霊の証によって確認するために神に誠心誠意問うようにというモロナイの勧めが,その答えなのです。(モロナイ10:3-4参照。批判する人々にはこれを誠心誠意で試した人がほとんどいない)また,聖文にある教えを生活に取り入れて福音を実践するとき,わたしたちは御霊によって祝福を受け,喜びと幸福と,特に平安を感じて,主の慈しみを味わいます。(教義と聖約59:23参照)
明らかに,信仰の調べが聞こえる人と音を聞き分けられない人や音が外れる人との違いは,聖文を熱心に学んでいるかどうかです。何年も前,絶えず聖文を読み,学ぶことの必要性を強調した愛する預言者スペンサー・W・キンボール大管長の言葉に,わたしは深く心を動かされました。キンボール大管長は次のように述べました。「わたしは自分と神との関係が密接でなくなったと感じるとき,また神が耳を傾けず,声を発しておられないように感じるとき,神から遠く離れていることが分かります。そのようなとき,もし熱心に聖文を読むならば,その距離は縮まり,霊性が戻ってきます。」(『歴代大管長の教え――スペンサー・W・キンボール』66-67)
