さて、わたしは敵に向かって上って行くことをきっぱりと断り、主から命じられたとおりにした。わたしは、将来起こることについて証をされた御霊の示しのとおりに、自分が見聞きしたことを世の人々に明らかにする証人になった。
「人生の予期せぬ境遇」(英文)1989年4月、ニール・A・マックスウェル、十二使徒定員会
意のままにならないこうした様々な境遇の中で、人々はこのように考えます。「神はこの不運な巡り合わせをご存じなかったのだろうか。」「もし知っておられたなら、なぜそれを許されたのだろうか。」「私のことなどどうでもいいのだろうか。」
私たちは自分の行く道は自分で決められるものと思い込むことがままあります。ところが突然の出来事が、予定したこと、苦労して勝ち得たことさえ横に押しやり、やがてほかのものに変えてしまいます。そして私たちは、そうした出来事のみならず、人に対しても腹を立てるようになります。
人生の皮肉な境遇の中には予期しなかった苦痛だけでなく、必要でないと思われる苦痛もあります。もっと報われてよいはずなのに、結果は反対になったりします。ほかにもっとよい道があったはずです。それはどうなったのでしょうか。たとえば、病人を助けるために一生懸命訓練を積んだにもかかわらず、自分の病気のために人を助けられない医師がいます。また、ある時期、主の熱心な預言者は「ただ立って見てい」るよりほかに仕方がありませんでした。(モルモン3:16) 逆境のために、本来の務めが果たせなくなっているのです。
しかし、こうした特殊な逆境だけでなく、パウロが「世の常」(1コリント10:13) と言った苦難や誘惑も、私たちを待ち受けています。
予想に反したこうした逆境に処するに当たり、私たちにはほかのあらゆる場合と同じように、イエスという教師が模範者として与えられています。イエスは絶えず、その神性を無視するかのような耐え難い逆境にさらされていました。
イエスにとっての逆境は実に誕生とともに始まりました。まさに主は「最初よりすべて」御父のみこころを受けて苦しまれたのです。(3ニーファイ11:11) この地球はイエスの足台ですが(使徒7:49参照)、エルサレムには、宿に部屋もなければ寝床もありませんでした。(ルカ2:7;「子供の歌」F-1参照)
最期のときには、柔和でへりくだったイエスは苦々しい思いはわずかも抱かずに、最も苦きさかずきを飲みほしたのです。(3ニーファイ11:11; 教義と聖約19:18-19参照) 最も罪のないお方が最も苦しまれたのです。しかし、この王の王は下臣が「その欲するままに人の子をあしら」っても(教義と聖約49:6)、負けませんでした。逆境に耐える主の力には驚くべきものがあります。
それに比べて私たちの霊はなんともろいことでしょう。たとえば、試練は本来公平に与えられるものではないことさえ忘れてしまいます。
