清くない者は、決して父の王国に入ることができない。したがって、信仰を持ち、罪をすべて悔い改め、最後まで忠実であることによって、わたしの血により衣を洗われた者のほかには、父の安息に入る者はいない。
「公正に振る舞い,憐れみを愛し,へりくだって神とともに歩む」2020年10月、デール・G・レンランド、十二使徒定員会
旧約聖書の預言者ミカは,このように問いかけました。「わたしは何をもって主のみ前に行き,高き神を拝すべきか。」(ミカ6:6)とてつもないささげものをしたところで,罪の埋め合わせに足ることがあるのだろうかと,ミカは皮肉めいてこう口にしています。「主は数千の雄羊,万流の油を喜ばれるだろうか。……わが魂の罪のために〔わが長子を〕ささぐべきか。」(ミカ6:7)
その答えは「いいえ」であり,善行では不十分と言えます。救いとは,自力で手に入れるものではないのです。(エペソ2:8;2 ニーファイ31:19;アルマ22:14;42:14;3 ニーファイ18:32;モロナイ6:4;教義と聖約3:20 参照)ミカが挙げたような計り知れず実行不可能な犠牲をもってしても,最もささいな罪の代価にすらなりません。自分の持てるものにしか頼れないとすれば,神のみもとに帰り,神とともに暮らせる見込みはまったくありません。(3ニーファイ27:19参照)
天の御父とイエス・キリストからの祝福なくして,独力では,行いの面でも人格の面でも救いに足る状態に到達することはあり得ません。しかしながら,良い知らせがあります。イエス・キリストのおかげで,また主を通じて,わたしたちは救いに足る者となることができるのです。(アルマ41:8;モロナイ10:32-33参照)すべての人は,イエス・キリストの死と復活を通じて,神の恵みにより,肉体の死から救われます。(1コリント15:22;アルマ11:42-45参照)また心を神に向けるなら,「〔イエス・〕キリストの贖罪により,……福音の律法と儀式に従うことによって」,(信仰箇条1:3)あらゆる人が霊の死から救われ得るのです。わたしたちは罪から贖われ,神の御前に清く,汚れのない状態で立つことができます。ミカはこう説明しています。「人よ,〔神〕はさきによい事のなんであるかをあなたに告げられた。主のあなたに求められることは,ただ公義をおこない,いつくしみを愛し,へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。」(ミカ6:8。同様の勧告についてはアルマ41:14;教義と聖約11:12;信仰箇条1:13を参照)
