おお、そのときにわたしが思ったのは、自分が追放されて霊と肉体がともになくなってしまえば、神の御前に立たされて自分の行いを裁かれることはないだろうということであった。
「聖餐と贖罪」2014年10月、ジェームズ・J・ハムラ、七十人
現世の生涯を通して,わたしたちの誰もが,罪と背きで汚れます。(モーセ6:55参照)徳に反したことを考えたり,言ったり,行ったりしてしまいます。(マタイ5:27-28;12:36;ヤコブの手紙3:1-13 ;モーサヤ4:29-30;アルマ12:14参照)要するに,清くない者となります。神の御前で清くない者が招く結果について,イエスは明確にしておられます。「清くない者は……神の前に住むことができない。」(モーセ6:57。1コリント6:9;エペソ5:5;1ニーファイ10:21;15:33-34;アルマ7:21;11:37;40:26;3ニ―ファイ27:19;教義と聖約1:31-32も参照)息子アルマは,この現実をはっきりと思い知らされます。彼は清い天使と向かい合い,自らの汚れに苦しみ,悩み,責めさいなまれた挙げ句,「霊と肉体がともになくなって……神の御前に立たされ……ること〔が〕ない」(アルマ36:15。14節も参照。黙示6:15-17;アルマ12:14も参照)ように願ったほどでした。
聖餐の水を取るときに,わたしたちはどのように罪と背きから清められ,神の御前に立つことができるか教わります。罪なき血を流すことで,イエス・キリストはあらゆる罪と背きに対する正義の要求を満たされました。そして,わたしたちに悔い改めるに足る御自身への信仰があるならば,清められるためにバプテスマをはじめとする救いの儀式と聖約をすべて受け入れ,聖霊を受けるよう求められます。聖霊を受けると,わたしたちは洗い清められます。イエスは次の教義を明らかにしておられます。
「清くない者は,決して〔神の〕王国に入ることができない。……わたしの血により衣を洗われた者のほかには,父の安息に入る者はいない。……
さて,戒めは次のとおりである。地の果てに至るすべての者よ,悔い改めて,わたしのもとに来て,わたしの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば,あなたがたは聖霊を受けて聖められ,終わりの日にわたしの前に染みのない状態で立てるであろう。」(3ニーファイ27:19-20)
これがキリストの教義です。(2ニ―ファイ31:2-21;3ニ―ファイ11:31-41;27:13-22;教義と聖約76:40-42,50-54,69-70参照)この教義を受け,それに従った生活を送るときに,わたしたちは,本質的に,キリストの血によって洗われ,清くなります。(3ニ―ファイ27:19参照。黙示1:5-6 ;7:14-15;アルマ5:21;13:11-12;エテル13:10-11;モーセ6:59-60も参照)
