すると、ラモーナイはアンモンに言った。「わたしはあなたが主の力で何事でもできることを知っています。しかし見よ、わたしも一緒にミドーナイの地へ行きましょう。ミドーナイの地の王はその名をアンテオムノといい、わたしの友です。ですから、わたしもミドーナイの地へ行って、その地の王をなだめましょう。そうすれば、彼はあなたの兄弟たちを牢から出してくれるでしょう。」また、ラモーナイは彼に、「あなたの兄弟たちが牢に入っているとあなたに告げたのはだれですか」と尋ねた。
「容易に重荷に耐えられるように」2014年4月、デビッド・A・ベドナー、十二使徒定員会
「わたしのくびきは負いやすく,わたしの荷は軽いからである」という救い主の言葉を思い出しながら( マタイ11:30),アルマの民が受けた次の言葉について考えてください。
「またわたしは,あなたがたの肩に負わされる荷を軽くし,……あなたがたの背にその荷が感じられないほどにしよう。」(モーサヤ24:14)
この聖句は,重荷が突然,永久に取り去られることを示しているのだ,と思う人が多いかもしれません。しかし次の節に,どのように重荷が軽くなったかが記されています。
「そこで,アルマと彼の同胞に負わされた重荷は軽くなった。まことに,主は,彼らが容易に重荷に耐えられるように彼らを強くされた。そこで彼らは心楽しく忍耐して,主の御心にすべて従った。」(モーサヤ24:15,強調付加)
問題や困難は,すぐには取り除かれませんでした。しかし,アルマの民は強められました。能力が高められた結果,重荷が軽くなったのです。彼らは贖罪によって,自ら選択し行動する者として行動する力を授かり(教義と聖約58:26-29参照),状況に影響を及ぼしました。その後,アルマの民は「主の力を受けて」安全なゼラヘムラの地に導かれました(モルモンの言葉1:14;モーサヤ9:17;10:10;アルマ20:4を参照)。
イエス・キリストの贖罪は,アダムの堕落の影響に打ち勝ち,人間が犯す一つ一つの罪の赦しを可能にします。しかしそれだけではなく,主の贖罪はまた,人が善い行いをすることを可能にし,死すべき人間の限界を超えてより善い者となることを可能にします。ほとんどの教会員が知っているように,間違いを犯したときや,罪の影響力に打ち勝つ助けが必要なときに,贖いの力によって清めていただくことができます。しかし,贖罪が,忠実で,従順で,ふさわしく,誠実な人,そして善い人になろう,忠実に仕えようと努力している人のためにもあることを,わたしたちは理解しているでしょうか。わたしたちは贖罪に人を強める側面があることを十分に認識していないのではないかと懸念しています。根性や意志の力,自制心,明らかに限界のある自分の能力によって,積荷を独りで負わなければならないと思い違いをしてはいないでしょうか。
イエス・キリストが地上に来て人のために死んでくださったという知識は大切です。しかし同時に,主は贖罪を通して,そして聖霊の力によって,わたしたちを活気づけたい,単に導くだけでなく強め癒したいと望んでおられるということも知る必要があります。