ところが兄たちは、主の計らいを理解しなかったので、ニーファイに対して腹を立てた。彼らは主に対して心をかたくなにしたので、海の上でも彼に対して腹を立てた。
「わたしはすべての人をわたしのもとに引き寄せた」2016年4月、デール・G・レンランド、十二使徒定員会
天の御父とイエス・キリストに近くあるかどうかで生じる違いについて,分かりやすい事例がモルモン書に記録されています。ニーファイとその兄レーマン,レムエルのまったく対照的な事例です。
ニーファイは「神の奥義を知りたいという大きな望みを抱いていたので,主に叫び求め」,心を和らげられました。(1ニーファイ2:16) 一方,レーマンとレムエルは神から離れていました。すなわち神を知りませんでした。
ニーファイはつぶやくことなく困難な任務を引き受けましたが,レーマンとレムエルは「多くのことで……つぶや〔きまし〕た。」つぶやきは,大人げない泣きごとに関する聖文の中の実例です。聖典には「彼らがつぶやいたのは,自分たちを造られたあの神の計らいを知らないためであった」と記されています。(1ニーファイ2:11-12)
ニーファイは,神を身近に感じていたので,神の「深い憐れみ」を認め,感謝することができました。(1ニーファイ1:20)それとは対照的に,レーマンとレムエルはニーファイが祝福を受けるのを見て,「主の計らいを理解しなかったので,ニーファイに対して腹を立て〔まし〕た。」(モーサヤ10:14)レーマンとレムエルは,自分たちが受けた祝福を当然のこととして捉え,怒りを抱き,自分たちこそもっと多くの祝福を受けるべきだと考えました。二人はニーファイの受けた祝福を,自分たちに対して神が犯した「あやまち」と思ったようです。これは満たされない権利意識に関する聖文の中の実例です。
……
救い主から隔たっていたために,レーマンとレムエルはつぶやき,争いを引き起こし,不信仰に陥りました。人生は不公平であり,自分たちは神の恵みを受けて当然と感じました。それとは対照的に,神に近くあったニーファイはきっと,最も不公平な人生を送ったのはイエス・キリストであると理解していたことでしょう。まったく罪がなかったにもかかわらず,救い主は最も大きな苦しみを受けられたのです。