このように、神は人が信仰によって偉大な奇跡を行うことができるように、一つの手段を与えてくださいました。それでその人は、同胞に大きな利益をもたらすようになるのです。
「奇跡の日は終わってしまったと言えるであろうか」2017年10月、ドナルド・L・ホールストロム、七十人
モロナイはこう教えています。「どのようなときでも,信じてからでなければ奇跡を行った者はいない。」(エテル12:18)アンモンは次のように述べています。「神は人が信仰によって偉大な奇跡を行うことができるように,一つの手段を与えてくださいました。」(モーサヤ8:18)主はジョセフ・スミスにこう啓示されました。「わたしは神であり,……わたしの名を信じるすべての者に,わたしは数々の奇跡……を示そう。」(教義と聖約35:8)
ネブカデネザル王は,王が神として造った金の像を拝むようシャデラクとメシャク,アベデネゴに強要し,こう脅しました。「拝むことをしないならば,……火の燃える炉の中に投げ込まれる。」それから,彼らをあざけってこう言います。「いったい,どの神が,わたしの手からあなたがたを救うことができようか。」(ダニエル3:15)
この3人の信心深い弟子たちは答えました。「もしそんなことになれば,わたしたちの仕えている神は,その火の燃える炉から,わたしたちを救い出すことができます。……たといそうでなくても,王よ,ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕え……ません。」(ダニエル3:17-18)
彼らには,神が自分たちを救うことがおできになるという十分な確信がありましたが,「たといそうでなくても」神の計画に対する完全な信仰があったのです。
同様に,デビッド・A・ベドナー長老はかつて,神権の祝福を求めた若い男性にこう尋ねました。「もしもその若さで亡くなって活動の場が霊界に移り,そこで務めを果たすことが天の御父の御心だとしたら,御心に従って癒されないことをよしとする信仰が持て」ますか。(デビッド・A・ベドナー「主の御心と時期を受け入れる」『リアホナ』 2016年8月号,19)永遠にわたる癒しを受けられるように,現世の苦難からは「癒されない」という信仰が,わたしたちにはあるでしょうか。
熟考すべき重要な問いかけは,「わたしたちは,信仰をどこに置くのだろうか」ということです。わたしたちの信仰は,ただ痛みや苦しみから解放されたいという望みに向けられているでしょうか。それとも,父なる神と神の聖なる計画,イエス・キリストとその贖罪をしっかりと中心に据えているでしょうか。御父と御子を信じる信仰があれば,わたしたちは永遠に向かって備える中で,御二方の御心を理解し,受け入れることができます。
