見よ、主は言われた。『わたしは、自分の民が戒めに背く日にはこれを助けず、彼らが栄えないようにその道をふさごう。彼らの行いは、彼らの前に置かれたつまずきの石のようになる。』
「主から助けをいただく」(英文)1991年10月、リチャード・G・スコット、十二使徒定員会
私たちの捧げる祈りが,皆私たちの望みどおりにかなえられるというものでもありません。主のみこころを知るということは決してたやすいことではないのです。しかし,それでも私たちにはっきりとわかっていることもあります。たとえば,主は私たちに,教えに反することをするよう求められたりはしません。私たちが不道徳な行いをしていたり,あるいは意図的に戒めに従っていなかったりした場合には,悔い改めない限り,主から助けを受けることはできません。いかなる形であれ純潔の律法に反する行いをしていながら,ある人が本当に自分の永遠の伴侶かどうか知りたいと祈る人は,その罪を悔い改めない限り,確信を得る望みはほとんどありません。
「見よ,主は仰せになった『われはわが民の罪を犯すときにこれを助けず,かれらの栄えぬようにその道を塞ぐ。その行いはかれらの前につまずく石の如くとならん』と。」(モーサヤ7:29) 「しかしながら,お前たちが誠心から主に立ち帰り,主に頼って熱心に仕えるならば,主は……お前たちを奴隷の境涯から救い出したもう。」(モーサヤ7:33)
私たちが熱心に祈りを捧げるならば,その祈りが主のみこころにかなうものである限り,必ず答えは与えられます。私たちは主のみこころを完全に理解できるわけではないので,信仰によって歩んでいく必要があります。主は全知であり,その決定は完璧です。確かに私たちの理解力には限度があるため,主の人に対するみ旨をすべて理解することはできません。しかし,だからといって,主が授けてくださる祝福にも限度が定められているということはありません。主のみこころにかなったことを行なうのは,私たちがそのみこころを完全に理解していようといまいと,私たちの人生における最善の選択です。私たちが自分の自由意志を賢明に使って行動するときには,主はそのみこころにかなう限り,確かに祝福を授けてくださるのです。
The prayer of Enos by Jorge Cocco Santangelo