1テサロニケ5:8
しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。
「希望という無限の力」2008年10月、ディーター・F・ウークトドルフ、大管長会
希望は三脚いすの脚の一つです。信仰と慈愛とともに,この3つはわたしたちの生活を安定させます。困難や試練に遭遇しても倒れることはありません。聖文には希望の大切さが明確に書かれています。使徒パウロは,聖文が書かれた目的はわたしたちに「望みをいだかせるため」(ローマ15:4)であると記しています。
希望は生活を幸福で満たす力を持っています。(詩篇146:5)しかし希望がないと,つまり望みをなかなか持てないでいると,「心を悩ます」(箴言13:12)ことがあります。
希望は御霊の賜物です。(モロナイ8:26参照)それはキリストの贖いと復活の力を通して,また救い主を信じる信仰により,わたしたちが永遠の命へ引き上げられるという希望です。(モロナイ7:41参照)このような希望は約束の原則であると同時に,戒めでもあります。(コロサイ1:21-23参照)ほかのあらゆる戒めと同じように,責任が伴うのです。わたしたちは希望を生活の一部とし,希望を失わせようとする誘惑に打ち勝たなければなりません。天の御父の憐あわれみに満ちた幸福の計画に対する希望は,平安(ローマ15:13参照),憐れみ(詩篇33:22参照),喜び(ローマ12:12参照),幸福感(箴言10:28参照)を生みます。救いへの希望はわたしたちの守りのかぶとであり(1テサロニケ5:8参照),信仰の土台であり(ヘブル11:1;モロナイ7:40参照),心の錨なのです。(へブル6:19;エテル12:4参照)
たった独りになったモロナイは,自分の民が完全に滅びるのを目の当たりにした後でさえも希望の大切さを信じていました。モロナイは,ニーファイの民が滅びる直前にも,希望がなければ神の王国で受け継ぎを得られないと記しています。(エテル12:32参照;ローマ8:24も参照)
