エペソ1:7
わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。
「あなたがたは神の宮である」2000年10月、ボイド・K・パッカー、十二使徒定員会会長
心の中にふさわしくない思いがわいてきたら、それと戦い、抵抗し、制御してください (ヤコブの手紙4:6-8;2ニーファイ9:39;モーサヤ3:19参照)。使徒パウロは教えています。「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」(1コリント10:13。教義と聖約62:1も参照)
……
さて、すでに過ちを犯した人や、不道徳な生活の中で自分を見失った人は、どうでしょうか。希望があるでしょうか。永遠に追い出され、失われるのでしょうか。
赦されない罪があります。しかし、これらのふさわしくない行為や自然に逆らう罪、不道徳などは、赦されない罪ではありません (教義と聖約42:25参照) 。完全に罪を捨てて悔い改めるならば、赦しという清めの賜物がもたらされ、罪悪感という重荷が消えるのです。この過程は恐らく長く、確かに難しいでしょうが、達成できるのです (使徒5:31;エベソ1:7;モーサヤ4:2;26:29;教義と聖約1:31-32;58:42;61:2参照) 。
皆さんは自分でその方法を見つける必要はありません。また独りで見つけることはできないでしょう。贖い主がおられます。主は皆さんが悔い改めて罪を捨て、二度と行わなければ、その重荷を取り去ってくださいます。それがキリストの贖いの目的です。
「主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅くれないのように赤くても、羊の毛のようになるのだ。」(イザヤ1:18) 皆さんの選択次第で、永遠に追放されることはないのです。繰り返しますが、これは赦されない罪ではありません。
ある人はこう言います。「もう遅すぎる、すぐに人生は終わって、永遠の罰を受ける。」そうではありません。「もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。」(1コリント15:19)
体を洗い清めて癒せるように、霊は贖いの力によって、洗い清められます。主は皆さんを高く上げて、清くなるために必要な苦難の間に重荷を負ってくださるでしょう。それがキリストの贖いなのです。主は言われました。「主なるわたしはもう〔その罪〕を思い起こさない。」(教義と聖約58:42。ヘブル8:12; 10:17; アルマ36:19 も参照)
愛する青少年の皆さん、主の道にとどまってください。もしつまずいたら、起き上がって進んでください。道をそれたら、わたしたちは両手を広げて皆さんの帰りを待っています。
わたしは主イエス・キリストについて証します。この御方によって与えられる贖いの力によって、神がたたえられますように。この力は、罪を取り除き、清め、赦しを得させるものです。イエス・キリストの御名によって、アーメン
