ヨハネ5:3-4
その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。〔彼らは水の動くのを待っていたのである。 それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。〕
「なおりたいのか」2013年10月、ティモシー・J・ダイクス、七十人
救い主はエルサレムでの喜ばしい祭りのとき,集まった大勢の人を後にして,最も助けを必要としている人々を探し出されました。主が行かれた羊市場の隣にあるベテスダと呼ばれる池には5つの廊があり,病気で悩んでいる人が集まるので有名でした。
ヨハネの福音書にはこうあります。池の近くには「病人,盲人,足なえ,やせ衰えた者などが,大ぜいからだを横たえていた。〔彼らは水の動くのを待っていたのである。それは,時々,主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが,水が動いた時まっ先にはいる者は,どんな病気にかかっていても,いやされたからである。〕」(ヨハネ5:3-4)
カール・ブロッホ作の美しい絵画「ベテスダの池」には救い主がそこを訪れられた様子が描かれています。ブロッホは,イエスがにわか作りの天蓋を優しく持ち上げ,池の近くに横たわって水が動くのを待っている「病人」が見えた場面をとらえています(ヨハネ5:7)。この病人に当たる言葉は,無力な人という意味で,救い主の憐れみと恵みを強調しています。なぜなら主は,自分ではどうすることもできない人々を助けるために,ひそかにおいでになったからです。
絵には38年間も病に苦しみ,疲れ果て,意気消沈し,暗い床にうずくまる病人が描かれています。
救い主は片手で布の端を揚げ,もう一方の手で手招きをして,鋭い質問をされます。「なおりたいのか。」
病人は答えて言います。「主よ,水が動く時に,わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると,ほかの人が先に降りて行くのです。」(ヨハネ5:6-7)
この人の不可能と思えるチャレンジに対して,イエスは意味深く,思いも寄らない答えをお与えになります。
「『起きて,あなたの床を取りあげ,そして歩きなさい。』
すると,この人はすぐにいやされ,床をとりあげて歩いて行った。」(ヨハネ5:8-9)
……
トーマス・S・モンソン大管長はこう言っています。「苦難と悲しみに満ちた人々を支えている一つの模範があります。主イエス・キリストです。」(「人生のチャレンジに立ち向かう」(英文)1993年10月、総大会)
もし自分は汚れている,愛されていない,不幸だ,ふさわしくない,癒されていないと感じるなら,「人生の中で経験するすべての不公平なことは,イエス・キリストの贖いによって正される」(「わたしの福音を宣べ伝えなさい」) ことを思い出してください。救い主の時間と,あなたのために用意された目的に信仰と忍耐を持ってください。「恐れることはない。ただ信じなさい。」(マルコ5:36)
救い主がわたしたちの魂を回復し,心を癒そうとしてくださっていることを信じてください。主は扉のそばで待ち,たたいておられます。再び祈り,悔い改め,赦し,そして忘れることで主にこたえましょう。神を愛し,隣人に仕え,清められて,聖なる場所に立ちましょう。ベテスダの池にいた病人やエルサレムへの旅で会った皮膚病の男,そしてコリー・テンブームは癒されました。「なおりたいの〔です〕か。」起きて,歩きましょう。主の「恵みはあなたに対して十分」であり(2コリント12:9),独りで歩むことはないのです。
わたしは神が生きておられることを知っています。わたしたちは神の子であり,神は今のわたしたちと,将来なり得るわたしたちを愛しておられると知っています。神は全人類の贖いの犠牲として御子を世に送り,福音を受け入れ主に従う人々が癒され,欠けるところがないようにしてくださいました。―それは「神自身の時に,神自身の方法で,神自身の思いに従〔い〕」,神の深い憐れみにより起こります(教義と聖約88:68)。このことをイエス・キリストの御名により証します,アーメン
