マタイ6:8
だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。
「祈りという命綱」2002年4月、ジェームズ・E・ファウスト、大管長会
わたしたちは日々の生活の大小様々な心配事について祈る特権を得ています。アミュレクの言葉を考えてください。牧場にいるときは家畜のために、家では家族のために、朝も昼も夜も祈るように、敵や悪魔の力を防ぐことができるように、作物のために叫び求めるように、また人目に触れない場所でも荒れ野でも心を注ぎ出すようにと勧告しています。そして、声に出して直接主に叫び求めないときでも、絶えず心の中で主に祈るようにすべきであると言っています。(アルマ34:20-27参照)
今日多くの人々がアミュレクの勧告を実践しています。夫のために心からこう祈る妻がいることでしょう。「今、国のために戦地で仕えているジェーソンが安全でありますように。」こう祈る母親がいます。「愛するジェーンが正しい選択ができますように祝福してください。」こう祈る父親がいます。「天のお父様、伝道に出ているジョニーを祝福し、扉が開いて心の正直な人に出会えますように。」たどたどしい言葉でこう祈る子どもがいます。「今日、いい子でいられますように。」「みんなに食べ物がたくさんありますように。」「ママの病気が早く治りますように。」これらは天の永遠の家にこだまする霊的な祈りです。神はわたしたちの必要をわたしたち以上に御存じですが、(マタイ6:8) わたしたちが信仰をもって神のみもとへ来て、祝福と安全と慰めを求めるように願っておられるのです。
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救い主がゲツセマネの園でささげられた祈りほど、人の心を打つ祈りはありません。主は弟子たちから離れてひざまずき、祈られました。「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください。」(ルカ22:42) わたしたちがささげるすべての祈りの大切な要素の一つが、ゲッセマネでささげられた祈りの形式に従うことであるのはもっともなことです。「わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください。」そのように祈ることによってわたしたちは、人生においてほかのすべてに優先する主の目的に献身し従う意志を表明するのです。主は言われました。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」(ヨハネ15:7)「わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さる」(1ヨハネ5:14) という確信をもって祈ることができたとき、わたしたちは何と栄光にあふれた日を迎えることができることでしょう。
