マタイ6:5
また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
「主イエス・キリストの弟子となる」2017年4月、ロバート・D・ヘイルズ、十二使徒定員会
多くの人は弟子と聞くと,単に「従う者」という意味だと考えます。しかし,真の弟子が意味するのは,そのような人物に「なる」ということです。つまり,個人の特質の一覧表を研究して実践する以上のことなのです。主の弟子は,自らの人格にキリストの特質を織り込み,霊のタペストリーを作るように生活します。
救い主の弟子となるように招く,使徒ペテロの言葉に耳を傾けてください。
「あなたがたは,力の限りをつくして,あなたがたの信仰に徳を加え,徳に知識を,
知識に節制を,節制に忍耐を,忍耐に信心を,
信心に兄弟愛を,兄弟愛に愛を加えなさい。」(2ペテロ1:5-7)
この聖句から分かるように,主の弟子として自分の霊のタペストリーを織るのに必要な糸は,1本だけではありません。救い主の時代,自らが生活のある面において義にかなっていることを主張する人が大勢いました。彼らは,わたしがえり好みの従順と呼ぶものを行っていたのです。例えば,安息日には働かないようにとの戒めは守りましたが,その聖日に病人を癒された救い主を非難しました。(ルカ13:14参照) 貧しい人に施しましたが,自分の必要としない余ったものだけを差し出しました。(ルカ21:4参照) 断食しましたが,その表情は陰気でした。(マタイ6:16参照) 祈りましたが,ただ人に見せようとして行いました。(マタイ6:5,アルマ38:13も参照) 「彼らは唇をもってわたしに近づくが,その心はわたしから遠く離れている」と,イエスは述べておられます。(ジョセフ・スミス—歴史1:19,イザヤ29:13,ルカ6:46も参照) そのような男女は,特定の特質や振る舞いを身につけることに心を注ぐかもしれませんが,その内面は必ずしも,主に似た者とはならないのです。
……
兄弟姉妹の皆さん,今はかつてない程,「パートタイムの弟子」ではいられないときです。教義やそのほかのある点についてだけ,弟子でいることはできないのです。今日お話ししたものを含め,キリストを信じる信仰により身につける多くの特質は,この終わりの時にあって確固として立つために,すべて必要なものです。
イエス・キリストの真の弟子になろうと熱心に努めるとき,これらの特質がわたしたちの中で織り合わされ,増し加えられ,互いに強められます。敵対する者にも,友に対しても,分け隔てなく優しさを示すようになります。だれかに見られていても,見られていなくとも,同じように正直であります。自分の部屋にいても,公の場にいても,同じように神に献身します。
……
兄弟姉妹,わたしたちは皆,救い主の弟子となるように召されています。この大会を,「昔のようになり,心を尽くして主のもとに来〔る〕」機会としましょう。(モルモン9:27) これは主の教会です。わたしは主が生きておられることを特別に証します。献身的で雄々しい弟子となることを追い求める永遠の旅路にあって,主がわたしたちを祝福してくださいますように。イエス・キリストの御名により,アーメン
